関西アクセントの難しさ

 よく関東と関西ではアクセントが反対だと言う。確かに「橋」と「箸」では反対である。しかし、「反対」ということが成り立つのは、考えてみれば2音の言葉に限られる。3音以上では、アクセントの型も3種類以上になるのだから、反対も何もない。

 日本語のアクセントは英語のような強弱アクセントではなく、高低アクセントであることは割合よく知られている。それなら、3音の語の場合、2×2×2=8で、(以下、「高を●、「低」を○で示す)「●●●、●●○、●○○、●○●、○●●、○●○、○○●、○○○」の8種類のパターンがありそうである。ところが、関東弁の場合、「●○○(例として命)、○●○(心)、○●●(頭)」の3つのパターンしかない。ここには、(1)1音目が高ければ2音目は必ず低い、(2)1音目が低ければ2音目は必ず高い、(3)いったん高から低となったら再び高くなることはない、という3つの制限が働いている。関東弁では(2)の制限により低く始まった語が2音目で高くなることは当たり前のことなので、どこで音が低くなるかということが問題となる。国語学では、このように音が下がるところを「滝」と呼んでいる。

 「●○○」の場合は1音目と2音目との間に、「○●○」の場合は2音目と3音目との間に滝があるということになる。では、3音目のあとに滝はないのだろうか? あとに音がないのだから、その語だけを考えていれば、滝の存在を考えること自体無意味である。「頭」も「雀」もともに「「○●●」であって区別はない。しかし、このあとに助詞がついたらどうなるだろうか?

 「頭が」の場合は「が」が低くつき、「雀が」の場合は「が」が高くつくのが分かるであろう。つまり、「頭」は3音目の後に滝があるが、「雀」の場合はない、ということになる。結局、関東弁では、n音の語にはn+1種類のアクセント型があると考えたらいい。2音の場合も、助詞が低くつく「橋」のほかに高くつく「端」があり、「箸」とあわせて3種類のアクセント型があることになる。

 ところが、関西弁のアクセントにはさきにあげた(1)の制限がない。そのため、3音語の場合、さらに「●●●、●●○」のパターンが加わる。つまり、関東弁よりアクセントの型が多いのである。関西の人が関東弁をマスターするには手持ちを減らせばいいのだが、逆の場合は手持ちにないものを新たに身につけなければならないのだから大変である。私自身、今では関西暮らしのほうがはるかに長いのに、アクセントは関東弁のままである。ただ、周りに合わせて語彙に関西弁を交えて話すくせがついていて、関東に帰ったときにも無意識にそれが出るので、「関西弁になったな」などといわれるが、関西の人が聞けばお笑い草にしかならない。

  文 例 ふゆがくる こしがいたい はながさく
京都アクセント ●○○○● ●●●●○○ ●○○●●
東京アクセント ○●○○○ ○●●●●○ ○●○○●

 そのようなあずまえびすが京ことばをマスターするヒントを提供してくれる京言葉というサイトがある。このサイトでは、関東アクセントと関西アクセントの関係は文単位にすると明瞭だとして、右の表のような例を挙げている。この3つの例では、京都アクセントの「滝」の位置は東京より一つずつ前にずれる。京都アクセントで最後の音のアクセントは東京では最初に回ることになるが、そうすると、東京アクセントでは2音目が高い場合、1音目も高くなることはできないので低とならざるをえない。このような法則性を身につければ、京都弁をマスターすることも夢ではないとは言ってくれているのだが、京都にも暮らしたことがあり、関西暮らしが長いのにさっぱり関西アクセントが身につかない私としては、明治維新で関西弁が標準語ということになったら、大変な苦労をしただろうとつくづく思うのである。さらに、関西弁には、たとえば「秋」が「あきィ」というように「き」を音の高さを下げながら長めに発音したり、「は」という助詞が常に高音で発音されるため、「花は」が「●○●」となるというような、関東弁では考えられないアクセント・パターンがある。

 京都風のアクセントの分布は、関西を除けば、四国と北陸にほぼ限られ、意外なことに中国地方や北九州は関東アクセントに近い。関西でも兵庫県の但馬地方などは関東風アクセントである。このほか、鹿児島などにはより単純化された一型アクセントという独特のアクセントがあり、関東北部から東北南部にかけては、アクセントについての決まり自体がない地域がひろがっており、宮崎県など九州の一部にもある。この地域では、同じ「橋」をさっきは頭高にいったかと思うと今度は尻上がりにいうという具合である。宇都宮出身の作家、立松和平氏らの言葉を思い浮かべていただければいい。意外なことに、アクセントの決まりが崩壊した地域に福井市がある。大学のとき福井市出身の学生で言葉が分かりにくいのがいたことを思い出す。ただ、これは福井県でも福井市周辺だけの局地的な現象のようで、同じ福井県でも若狭地方の小浜出身の学生の言葉はまるで関西弁であった。漫才の故横山やすし、西川きよしのコンビは高知県の出身だということだが、吉本にとけこめたのも四国出身だったことが大きいのではないかと思う。

 日本語には同音異義語が多い。それなら、高低のあらゆる組み合わせがあるなら、語の区別に便利だろうと思うのだが、これまで述べてきたような制限があり、アクセントは語の区別にはあまり役立たない。西アフリカの言語などでは、高低の組み合わせで多くの語が区別され、たとえば「コ」のような1音節の語でも高くいうか、低くいうか、中間の高さでいうかで意味がまるで違ってくるという。これに対し、日本語のアクセントは、語を区別するよりも、文節の切れ目を明確にするということを主な使命としている。だからこそ、アクセントが違っても違う方言の話し手の間で会話がスムーズに進行するのである。ただ、アクセントが崩壊した地域が各地にあるように、アクセントの決まりは必ずしもなくてもいいものかも知れない。

 しかし、アクセントは会話にさまざまな表情をつける。アクセントのある地域の人たちは、「島」や「星」を普通名詞として言うときと、人の苗字として言うときとで無意識にアクセントを変えている。むかし、俳優の竹脇無我の父で竹脇昌作というアナウンサーがいたが、その一本調子の語り口がかえって売り物になったのは、われわれがアクセントが違っても言いたいことが理解できる一方で、アクセントの違いに敏感だからにほかならない。

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