あいさつ(挨拶)の語源

 日本中の学校で、「オアシス」運動が行われている。「オ」は「おはよう」、「ア」は「ありがとう、「シ」は「しつれいします」、「ス」は「すみません」とするのが一般的で、何かとぎすぎすしがちな人間関係を、あいさつによって砂漠の中のオアシスのように潤そうということに狙いがある。実際、言葉のまったく分からない外国に行って、心ならずも人にぶつかったとき、相手が何か一言いったとしても、「気をつけろ」と言ったのか、「すみません」と言ったのか、言葉では分からない。落ち着いていれば表情や語調で見当はつくのだろうが、こういうときには動転しやすいので、逆の意味にとりかねない。確かにあいさつは大事であり、よく言われるように、人間関係の潤滑油ともなる。

 「あいさつ」は漢字では、「挨拶」と書く。「挨」も「拶」も常用漢字には含まれていないので、普通かなで書かれるが、あまりにも日常的な言葉なので、漢字で書けなくても読める人は多い。しかし、「挨拶」という漢語を構成する「挨」も「拶」も、「押す」とか、「(むりやり)進む」という意味なので、「挨拶」という言葉の意味も、もとは今とは正反対のものだった。「士庶挨拶す」というと、人々が身分の隔てなく押し合いへし合いすることだった。パレードを見ようと争う群集を考えればよく、とても今のような譲り合いの精神を示す言葉とは言えなかった。その意味の変化は、禅僧の間でこの言葉が、仏教の教理をめぐって押し問答する意味に使われたことから始まった。そこから単に「言葉を交わす」という意味に変化し、今日の意味となった。江戸時代には、さらに「言葉を親しく交わす仲」という意味にも転じ、「あいさつ切る」といえば絶交のことであった。

 現代日本語のあいさつ言葉には、関西起源のものが多い。明治以降、江戸は東京と名を改め、全国から人が集まるようになったが、やはり圧倒的に関東近県からの移住者が多かった。その中で、関東以外で最も多かったのは京都からの移住者であり、皇室の東遷と関係があるようである。いわゆる標準語は、「教養のある山の手の江戸の人の言葉」をもとにして作られたのだが、標準語に取り入れられた「美しゅうございます」のような表現は、本来なら「美しく」のように「く」で終わるべき形容詞の連用形が「う」に変わる(「ウ音便」)のだから、明らかに西日本起源である。「おはよう」「おめでとう」「ありがとう」もこれと同様である。いずれも、本来は下に「ございます」をつける。「めでたい」が「たたえたい」、「ありがたい」が「めったにない」から来ていることはすぐ分かるが、人におごられたとき「ありがとう」というのには、「お前のようなけちがそんなことするなんて」というひねくれた解釈も可能である。

 日本語のあいさつ言葉には、最後まで言い切らないものが多い。その典型が「さようなら」であり、本来は「そうであるならば」という接続詞であった。古語の「さらば」にせよ、親しい仲でいう「じゃあ」にせよ、同じことである。これは、はっきり別れを持ち出すのを遠慮したともとれ、自分自身がその悲しみに耐えきれないことを示すともとれる。英語のgood-byeのgoodは"Good morning."などのような「良い」という意味ではなくGodの意味であり、「神があなたのそばにみそなわすように」ということだという。フランス語の「アデュー」やスペイン語の「アディオス」も「神へ」ということである。"See you again." (英語)、"Aurevoir."(フランス語)、 "Auf wiedersehen."(ドイツ語)、「再見(ツァイチェン)」(中国語)はいずれもはっきり再会を望む表現である。面白いのはトルコ語の"Güre güre."で、これは「笑って、笑って」ということらしい。「こんにちは」「こんばんは」も、そのあとに続くべき「御機嫌いかがですか」の部分が省略されており、Bonjour(ボンジュール  凾「かがですか」の部分が省略されており、Bonjo" border="0">好(ニーハオ)のように、相手がうまくいくことを直截にのぞむ表現とは異なっている。

 英語圏では、日本人が"Thank you."というべき場面でよく"I'm sorry."と言うのが不思議がられるらしいが、これは「すみません」の直訳であり、他人に負担をかけることを申し訳なく思う日本人の心性に由来しているとよく言われる。「ごちそうさま」というのは「馳走」、つまり客をもてなすために走り回ることであり、したがって風呂に入れてもらったときにも使える。どうも日本語のあいさつことばは、最後まで言い切らなかったり、遠まわしに表現したりして、余韻を残そうとする傾向が強い。ただ、日本語でも、いつでも「ありがとう=すみません」というわけではない。人にほめてもらったときは、どう考えても相手に負担をかけたわけではないので、率直に「ありがとう」と言い、決して「すみません」とは言わない。

 よく言葉の機能は「伝達」にあると言われる。しかし、あいさつことばは伝達という観点から見ると、まるで無駄な言葉である。「おはよう」なんてお互いに分かっていることではないだろうか? そのため、あいさつ言葉をできるだけ少なくする言語も多い。本多勝一氏によれば、西ニューギニアのモニ族は「ありがとう」も「こんにちは」も「お気の毒です」も全部「アマカネ」の一語で済ませるという。強いていうなら、日本語の「どうも」に近いのかも知れない。

 米山俊直氏によれば西アフリカのマリのバンバラ族は、「あなたのお父さんはいかがですか」「元気です。ありがとう」といった会話を、お母さん、奥さん、息子さん、娘さんについても毎朝繰り返し、韻を踏んだ詩をかけあいで読んでいるように聞えるという。日常顔を合わせ、それが彼らにとっては全世界というべき小さな集落で毎朝繰り返しているのである。と、すれば、あいさつことばの機能は、情報伝達ということよりも、やはり人間関係の潤滑油ということにあるようだ。

 身近な人間ほど大事にしなければならないのだとすれば、バンバラ族の悠長な風習も納得できる。あいさつは、人間関係がうまく行っているからするのではなく、うまく行っていなければなおさらすべきなのである。挨拶をしない若者にはそのように説得したほうが早いかも知れない。挨拶したからといって、自分が相手の下に立つわけではないと納得したとき、挨拶をしなかった若者も進んで挨拶するようになるにちがいない。
                  

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