日本中の学校で、「オアシス」運動が行われている。「オ」は「おはよう」、「ア」は「ありがとう、「シ」は「しつれいします」、「ス」は「すみません」とするのが一般的で、何かとぎすぎすしがちな人間関係を、あいさつによって砂漠の中のオアシスのように潤そうということに狙いがある。実際、言葉のまったく分からない外国に行って、心ならずも人にぶつかったとき、相手が何か一言いったとしても、「気をつけろ」と言ったのか、「すみません」と言ったのか、言葉では分からない。落ち着いていれば表情や語調で見当はつくのだろうが、こういうときには動転しやすいので、逆の意味にとりかねない。確かにあいさつは大事であり、よく言われるように、人間関係の潤滑油ともなる。 「あいさつ」は漢字では、「挨拶」と書く。「挨」も「拶」も常用漢字には含まれていないので、普通かなで書かれるが、あまりにも日常的な言葉なので、漢字で書けなくても読める人は多い。しかし、「挨拶」という漢語を構成する「挨」も「拶」も、「押す」とか、「(むりやり)進む」という意味なので、「挨拶」という言葉の意味も、もとは今とは正反対のものだった。「士庶挨拶す」というと、人々が身分の隔てなく押し合いへし合いすることだった。パレードを見ようと争う群集を考えればよく、とても今のような譲り合いの精神を示す言葉とは言えなかった。その意味の変化は、禅僧の間でこの言葉が、仏教の教理をめぐって押し問答する意味に使われたことから始まった。そこから単に「言葉を交わす」という意味に変化し、今日の意味となった。江戸時代には、さらに「言葉を親しく交わす仲」という意味にも転じ、「あいさつ切る」といえば絶交のことであった。 日本語のあいさつ言葉には、最後まで言い切らないものが多い。その典型が「さようなら」であり、本来は「そうであるならば」という接続詞であった。古語の「さらば」にせよ、親しい仲でいう「じゃあ」にせよ、同じことである。これは、はっきり別れを持ち出すのを遠慮したともとれ、自分自身がその悲しみに耐えきれないことを示すともとれる。英語のgood-byeのgoodは"Good
morning."などのような「良い」という意味ではなくGodの意味であり、「神があなたのそばにみそなわすように」ということだという。フランス語の「アデュー」やスペイン語の「アディオス」も「神へ」ということである。"See
you again." (英語)、"Aurevoir."(フランス語)、 "Auf wiedersehen."(ドイツ語)、「再見(ツァイチェン)」(中国語)はいずれもはっきり再会を望む表現である。面白いのはトルコ語の"Güre
güre."で、これは「笑って、笑って」ということらしい。「こんにちは」「こんばんは」も、そのあとに続くべき「御機嫌いかがですか」の部分が省略されており、Bonjour(ボンジュール
凾「かがですか」の部分が省略されており、Bonjo" border="0">好(ニーハオ)のように、相手がうまくいくことを直截にのぞむ表現とは異なっている。 よく言葉の機能は「伝達」にあると言われる。しかし、あいさつことばは伝達という観点から見ると、まるで無駄な言葉である。「おはよう」なんてお互いに分かっていることではないだろうか? そのため、あいさつ言葉をできるだけ少なくする言語も多い。本多勝一氏によれば、西ニューギニアのモニ族は「ありがとう」も「こんにちは」も「お気の毒です」も全部「アマカネ」の一語で済ませるという。強いていうなら、日本語の「どうも」に近いのかも知れない。 |