私の友人が私がHPを開いていることを知らずにネットサーフィンをしていて、たまたま私のHPに行き当たり、驚いてメールを送ってきたことがあった。「偶然ここにたどりつきました」とあったのだが、「ここ」という表現に戸惑いを感じた。「そこ」ではないかと思ったのである。しかし、相手の立場に立って考えてみるとなるほどと思う。彼は今、私のHPを見ており、私のHPは彼の手もとにあるのである。 日本語の「これ」「それ」「あれ」は、普通それぞれ「近称」「中称」「遠称」とよばれる。しかし、この呼び名はいかにもあいまいである。近中遠の区別にいったいどんな基準があるというのだろうか? この三つの使い分けについて実に明快な卓見を示したのは佐久間鼎博士であった。「こ」は自分の領域、「そ」は相手の領域、「あ」はそのどちらでもない領域を示すというのである。私たちの日ごろの言葉遣いも、佐久間説を裏付ける。「その本、取ってくれ」というとき、本は相手のすぐ手の届くところにある。言われた相手は「この本か?」というであろう。これに対して、「あの本、取ってくれ」と言われたときには、本は相手の領域にもないので、「あの本か?」と問い返すであろう。私の友人が「ここ」と書いたのも、私の記事がそのとき彼の手元にあったからである。さらに通説よりも佐久間説のほうが説得力がある例を挙げよう。二人で道を歩いているとき、前方に何か不審な物が落ちていたとする。そのとき言う言葉は「あれ、何だ?」であろう。物が二人のどちらの領域にも属さないからである。しかし、謎の物体はすぐ目の前に落ちているのであるから、少なくとも「遠称」という呼び方は不適当であろう。宇宙船にいる飛行士が手にもっているものさえ、「それは何ですか?」とアナウンサーは問いかけるではないか! 英語を習い始めたころの日本の中学生の中には、youと言われてとっさに I を主語にできない生徒が多い。I とyouのキャッチボールになれていないのである。ところが、これと同じことを、日本語では「こ」と「そ」の間でやっている。背中がゆいとき、人に「ここ掻いて!」といい、掻いてくれる人に「ここ?」と聞かれた人は、「そこ!」と答える。改めて「ここ!」というと、相手は掻く場所が違うのではないかと思ってしまう。このようなキャッチボールは、「あ」の場合には行われない。「あのボール、取ってきて!」と言われた人は、やっぱり「あのボール?」と確かめるであろう。これに対して、英語の場合は、もとがthisだろうとthatだろうとitで受ける。itは、決して日本語の「それ」ではない。 日本語には、どこにあるか分からないという意味で「不定称」とされる「ど」を加え、「こそあどの体系」とよばれる実に整然とした体系がある。「これ、ここ、こっち、こちら、こいつ、この、こんな、こんなに、こう」の「こ」を「そあど」のどれかに任意に代えることができる。例外は「あそこ」だけであるが、関西ではこれを体系どおり「あこ」という。もっとも、最近は「あそこ」という人のほうが遥かに多い。「こそあど」体系の言葉は、さまざまな品詞に分類されている。学校文法では、名詞に近い「これ、ここ、こっち、こちら、こいつ」は代名詞、「こう」は副詞、「この」は連体詞とされる。「こんな」「こんなに」は形容動詞の活用形とされるが、普通の形容動詞が「静かだ」「静かな」と「だ」と「な」が入れ替わるのに対して、「こんなな」という言い方はないので、例外的な活用をする形容動詞とされる。たしかに、文中での役割が違うのだから一つの品詞に括ることは難しいが、このような整然とした体系が日本語にあることは注目に値するが、朝鮮語にも、よく似た体系がある。 もう一つ、ヨーロッパ諸語で代名詞という品詞を設ける必要があるのは、それが動詞と一体となった言葉だということである。ラテン語のamare(愛する)という動詞は、人称と単複の区別によってamo,amas,amat,amamus,amatis,amantという具合に、代名詞が何であるかによって、さまざまに姿を変える。ラテン語の末裔の一つであるフランス語では、「われはje、なれはtu」と思われがちだが、「私のケーキ食べたのだれ?」と聞かれて"je"と言うわけには行かない。動詞が代名詞に依存しているのと同じように代名詞も動詞に依存しているのであり、両者は一体となってひとつの表現を完成する。フランス語ではこういう場合は強勢形といって、moi(私)、toi(あなた)という別の代名詞を用いる。フランス語独特の読み方で、それぞれ「モワ」「トワ」と読む。そういえば、私の若いころ、「トワ・エ・モワ」というデュオがあったことを思い出す。としては「あった」という気持ち)ことを覚えている人も多いであろう。 |