英語を第二公用語にする
必要があるのか?

 英語の「第二公用語化」という言葉をよく聞くようになった。小渕首相時代の答申でははっきりした提案が行われているわけではなく、「視野に入れる」というあいまいな表現になっているはいるが、いずれにせよ、英語重視という姿勢を打ち出したことには変わりはない。

 母語をほかに持ちながら、英語を公用語に加えている国には、インドやシンガポールなどがある。インドは、州ごとに言語のみならず文字までが異なり、シンガポールは中国系、マレー系、インド系の住民が入り混じっている。そのような国では、英語が異なる民族間の意思疎通の手段として用いられているという現実がある。英語を公用語に加えたのにも、このような現実的基盤がある。しかし、そういう現実のない日本で、英語を第二公用語にするという話がどこから出てくるのか、私は強く疑問に思っている。

 きっかけはやはり、インターネットであるらしい。たしかに、インターネットにおいて、英語は抜群の占有率を誇っている。しかし、その反面で、漢字をはじめ、ローマ字以外の文字をウェブに載せる技術が開発されたことや、さまざまな国でのネットの普及で、英語の占有率はひところよりはだいぶ低下している。たしかに、電脳化によって、英語は諸言語の中でとびぬけた存在になった。しかし、それが永続すると言いきれる保証は必ずしもない。たとえば、中国では、電脳用語の多くが漢訳されているが、文字種のすくない英語でコンピュータをあやつるより、漢字でコンピュータ言語をつくった方がはるかにあやつりやすいかも知れない。漢字文化圏がネット人口で世界のトップを走るという事態も意外と間近いかも知れない。

 情報が経済の死命を制する時代にあって、英語による膨大な情報を取り入れなければならない、というあせりが、今回の第二公用語化論の背景にはある。そのためには量が必要で、英語のできる人をもっと増やさなければならないということらしい。しかし、いま必要なのは量よりはむしろ質であろう。大学入試の英語問題をより実用的な力を評価できるものにするとか、英語教師の音声学的素養を高めるとか、たいして金も使わずにできることがたくさんある。そのような質的向上をはからずに、量の拡大ばかりはかっても、何にもならないどころか、いろいろと困った問題を引き起こすような気がする。英語を学ぶ必要と意欲のある人に投資を惜しまないのは大いに結構だが、必要も意欲もない人まで巻き込むことによい効果があるとは思えない。むしろ、なくもがなの英語コンプレックスを助長するだけのように思う。一部の企業で英語を社内公用語とする動きまであるが、そこで使われるのは英語とは言えない疑似英語にすぎず、日本人同士の意思疎通が不自由になる分、マイナスのほうが遥かに多いだろう。

 英語が共通語として定着している国でも、すべての人が英語を話せるわけではない。話す英語も正統派のクィーンズ・イングリッシュから、地元の言葉と融合したピジン・イングリッシュ(英米人には理解できない超ブロークン・イングリッシュ)までさまざまで、その違いが社会階層を反映しており、英語ができるということと、その人がどれだけインテリかということが同義としてとらえられていることが多い。しかし、日本では、この二つはまったく別のことと考えられている。これはとても幸せなことではないだろうか? 多くの途上国では、初等教育こそ母語で行われるものの、高等教育ともなると英語などの欧米言語にたよらざるをえない。高等教育まで母語で行うことを悲願とする国も多い。英語公用語化論を唱える人には、英語のできる人が少なければ、経済発展に支障が出ると考える人が多い。日本の場合、高等教育まで日本語で行われてきたがゆえに、均一な経済基盤が形成されたことこそが、これまでの経済発展の大きな基盤となっていると思う。逆にいえば、日本より英語のできる人の多い途上国はいくらもあるが、このような条件がないからこそ、これまで発展が妨げられてきたのである。英語で提供される膨大な情報を広く精読して使いこなす人は一部である。そのことは英語圏でも同じことであろう。多くの人にとっては、英語のページがだいたいどのようなことを書いているのかを分かりさえすれば十分であり、その程度のことなら、翻訳ソフトでカバーできるようになるであろう。翻訳ソフトには限界があるが、補助的道具としてなら大いに使いこなしたらいい。

 日本人が外国語が苦手だとすれば、その原因の多くは、日本人のはにかみにあると思う。よく、店先などで日本人の日本語を口真似する外国人を見かける。こういうことがさらっとできないのが日本人である。英語、英語と必要以上に騒ぎ立てることは、外国語習得の最大の障碍となっているこのはにかみを助長する結果にしかならない。そして、ただ見栄を張るためだけの不必要な外来語の増加を招くことだろう。そのような外来語の増加は、日本語の表現力を衰えさせるだけでなく、外国人の日本語学習者をも混乱に陥れる。日本語の体系がつかみにくくなるからである。

 かつて、外国映画の題名は一々日本語に翻訳されていた。原題よりも味わい深いと評価される訳題も多かった。大恐慌時代にアメリカを荒らしまわった若い二人の銀行強盗を描いた『ボニーとクライド』というアメリカ映画(1967年)があったが、主人公二人の名前を並べただけの原題を日本で『俺たちに明日はない』にかえたことは、誰よりこの映画を監督したアーサー・ペンを喜ばせた。

 念のため断っておきたいが、私は、何も「スピード」という映画を「速度」と訳して上映しろなどという馬鹿なことを言うつもりはない。私が憂慮するのは、映画の内容を咀嚼した上で、自分の言葉で表現しようとする習慣が失われているということである。もっともらしい英語の題名にも疑わしいものが多い。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」「シックス・センス」という映画が上映されたが、正しくはそれぞれ、"Dances with wolves","Sixth sense"である。英語をも粗末にするような題をつけるぐらいなら、翻訳したほうがいいように思う。アイドル歌手の歌の中に挿入される中学一、二年生程度の英語も、ただの掛け声と思えばいいのかも知れないが、歌詞の貧しさを覆い隠すだけのおまじないのようにも思える。

 英語に限らず、さまざまな言語のエキスパートを養成する必要はある。日米の戦争中、アメリカ軍は先住アメリカ人(いわゆるインディアン)の言語の一つであるナバホ語で暗号を作成していた。そのため、日本軍はそれを解読することができなかった。しかし、仮に日本軍がアイヌ語で暗号をつくっていたとしても、アメリカにはアイヌ語の研究者もいたのだから、解読されていた可能性が高い。20世紀にアメリカが大国であり続けたのは、このように多様な人材を持ち、一見むだとも思える研究にも国費の支出を惜しまなかったからである。あまりに単一の言語にすべてを賭けようとするのは、言語の面からの安全保障にもならない。英語が広く普及したシンガポールでは、その基盤の上に、逆に中国語(北京語)の学習を奨励している。

 日本の政治家には珍しく英語が達者な宮沢元首相は、演説のあとの質疑応答とか、公的な会見まで通訳なしで行うこともあった。しかし、それは必ずしもいいこととは思わない。いわば、向こうの土俵で丸裸になるからである。十分に推敲を重ねた草稿に基づいて英語で演説を行うのは効果的なことも多いが、質疑応答ともなれば、通訳を入れて日本語に切りかえるべきである。そのことで首相を軽く見る者がいたとしても、それに動じない様子を示しさえすればいい。パーティーの雑談で英語で愛想をふりまくのはいいが、貫禄を失ってはなんにもならない。IT時代に対応するためなら、英語教育を振興するといえば十分であり、何も第二公用語化などという大風呂敷を広げる必要はない。第二公用語ともなれば、政府の公的文書をすべて英訳しなければならないことになる。そのためにかける膨大な費用を、質的な向上に振り向ける方がはるかにいいし、他にも使い道はたくさんあるだろう。

 英語公用語化論を唱える人には、英語は単なるツール(道具)に過ぎず、日本語が第一公用語であることに変わりはないのだからいいではないかという人も多い。しかし、このような頭の切り替えを日本人がきちんとできるようにするためには、日本語(国語という名はやめたほうがいい)教育の見なおしとともに、欧米中心主義から脱した世界史像を教育の場で浸透させることが必要である。アメリカの大学で長く教鞭をとっている酒井直樹氏の著書『死産される日本語』にこんな話が出てくる。彼の勤める大学に香港出身の中国人の研究者がやってきた。学力面でも人格面でも問題がないのに、みんなからうとまれている。その理由は、かれが東洋人のくせに正統派のクィーンズ・イングリッシュを話すというだけの理由であった。外来の尺度に文化の評価を委ねるようなことにでもなったら、それは、日本文化の自殺行為にもなりかねない。今の英語公用語化論の論調を聞いていると、それを避けるための準備が十分整っていないという気がしてならない。


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