「紅一点」の反対語はなぜ無いか?


 むかし、東大に藤堂明保(とうどう・あきやす)という中国語の先生がいた。学園紛争が起こったときには教授の身で学生と一緒に旗を振ったり、大橋巨泉が司会していた「11PM」でテレビにレギュラー出演し、「女へんの漢字」なるコーナーを担当して、色っぽい話をしたりしていた。三重県にあった津藩の藩主の末裔とも聞いた。しかし、なぜ女へんの漢字は色っぽいのだろうか? 「婚姻」は男女がそろわないと成立しないし、男が絶対に「嫉妬」しないということもない。こういったことを見ると、漢字は男が作ったものだということがよく分かる。もっとも、これは、文字に限ったことではない。男が優位に立つ社会では、言葉自体が男中心になっている。日本語(やまとことば)でも、「雄々しい」が良い意味に、「女々しい」が悪い意味に使われるなど、同じような例には事欠かない。このような語彙を追放しようという動きがフェミニストの間から起こってすでに久しい。

 男性優位の社会では、男であることは「無標(普通のこと)」、女であることは「有標(特別なこと)」である。「紅一点」という言葉はあるが、その反対語はない。女の子が「少年マガジン」を読んでも別におかしいと思われないが、男の子が「りぼん」を読むとからかわれる。「女流文学」という言葉はあるが、「男流文学」という言葉はない。女性の側からは、男の書く文学は、女性に対する男特有の偏見があるから、男流文学ではないか、という主張も出てくる。そう言えば、漱石の「こゝろ」に登場する「先生」の「奥さん」にせよ、鴎外の「舞姫」のエリスにせよ、男の話を展開するための道具に過ぎず、何の意志も人格も描かれていない。

 男が「無標」で女が「有標」であるというのは、何も日本語に限らない。英語では、女性の場合はとくに-essという接尾辞がつくことが多い。例えば、host,stewardに対して、女性の場合は、hostess,stewardessとなる。ドイツ語では、König(王)、Lehrer(教師)に対してKönigin(女王)、Lehrerin(女教師)だ。ヨーロッパには、名詞に男性、女性の区別のある言語が多い。さらに中性というカテゴリーを持つ言語もある。男女または雌雄で全く違う語形となる例も多い。映画「サウンド・オブ・ミュージック」で世界的に広まった「ドレミの歌」の英語の歌詞は、言葉のしゃれになっている。あの映画を最初に見たとき、子供たちがけらけら笑う理由が分からなかった。doeはメスジカ、rayは日の光、meは自分を呼ぶ名前という具合である。鹿の場合、deerというのは本来はオスジカのことである。同様にメスウマはmare、メスイヌはbitch、メギツネはvixenである。問題は、雌雄を総称する場合、オスを呼ぶ言葉が用いられるというところにある。もっとも、ウシやニワトリの場合は、乳や卵をもたらすためか、メスを示すcowやhenが総称に用いられる。

 オスが総称となるというのは、人間についても同じである。英語では男をmanといい、女をwomanという。womanの語源は、womb(子宮)+manだという説もあるが、どうやら、wifemanが語源らしい。この点でも、男が「無標」で、女が「有標」であることが分かる。このことが、最近のアメリカで問題にされている。たとえば、カメラマンには男もいれば女もいる。そのため、cameramanという言葉が退けられ、代わって、camerapersonという言葉が用いられ、そのことは、manのつく他の職業についても同じだという。はなはだしい例では、historyの his を「彼の」の意味にとり、歴史は男以上に女によって作られてきたのだから、herstoryというべきだという主張まであるというが、これは考えすぎであろう。

 むかしの日本がそうであったように女系社会というのはあるが、女権社会というのは、世界中さがしても無いらしい。男女を示す言語の不平等をなくそうとすれば、どこの言語もたいへんな工夫を必要とするようである。しかし、それは社会自体の改革と並行して行われないと定着しないだろう。逆に、男性が女性のものとされた分野に進出し、「保母」「看護婦」が「保育士」「看護師」に代えられるという例もある。漢字の話にもどって言えば、「娯」「妖」などという字も問題になるだろう。「娯楽」というのは、あまりに男性本位だし、女性を「妖怪」と見るにせよ「妖精」と見るにせよ、「有標」のものと見ていることに変りはない。  

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