方言は保守的か?

 古い言葉は方言によく残ると言われる。関東で高校時代を過ごした私にとって、「去(い)ぬ」という言葉は、古文の時間に「死ぬ」とともにナ行変格活用の動詞として習った言葉であり、生きた言葉ではなかった。授業のとき、関西にはまだこの言葉が残っていると聞いて、さすが関西はみやびな言葉が残っているものだと感心したものである。ところが、関西に来てみると、この言葉のガラはあまりよくない。「いねぇ」とか「いんでまえ」という具合に使われるのである。「よむ」という言葉は本来「数える」という意味だとも習った。「こよみ(暦)」の「こ」は「ふつか、みっか」という時の「か」の母音が入れ替わったものであるから、「こよみ」とは「日を数えたもの」という意味になる。考えてみれば、日本にもともと文字はなかったのだから、文字を読むという意味での「よむ」が、何かから転用された言葉であることは明らかだ。最近はとんと聞かないが、「数える」という意味で「よむ」という年寄りは、私の学生時代の京都にはいくらでもいた。ちなみに、「書く」のほうは本来は「掻く」であろう。関東では「飽きる」「借りる」「足りる」など、上一段活用になっている動詞が、古文と同様に四段(五段)活用のままである。こういった点だけを考えれば、たしかに方言は保守的だと思えてくる。

 しかし、ここでちょっと待てよ、ということになる。考えてみれば関西弁が「方言」にされたのは、ここ百年あまりのことで、それまでは関西弁こそが「標準語」だったはずである。古文は、いわば昔の関西弁なのだ。そうなると、ことは保守的かどうかということではなく、今日にも連綿と連なる地域差なのではないのか、という気もしてくる。関西では打ち消しの「ない」は、今も話し言葉ではあまり用いられない。「知らない」というより、「知らん」または「知らへん(←知りはせん)」が普通である。「ない」という言い方は比較的近年に関東から広まったものだが、これには東国特有の「なふ」という打消しの助動詞が、形容詞の「ない」と混線して成立したという説がある。「なふ」は万葉集の東歌や防人歌にも登場しているのだから、関東弁だって、保守的なことはお互い様である。戦国時代に来日したヨーロッパ人は、関東人が「せ」という発音をすることを、珍しそうに書きとどめている。当時、都のあたりでは「しぇ」のように発音することが普通だったからである。関西には今でも「せ」「ぜ」を「しぇ」「じぇ」のように発音する人がいる。これは九州ではもっと一般的だが、厳密に言えば関東人の言う「しぇ」とは異なり、「せ」との中間的な音と考えればいい。九州から東京に転校した生徒が教師に「九州では『先生』のことを『しぇんしぇい』というそうだね」と言われ、憤然として「そんなことありまっしぇん」と答えたという話がある。古文と現代語との違いは、時代差だけではなく、地域差によるものでもあることは明らかである。

 方言の分布については、柳田國男の「方言周圏論」が有名である。関西で「デンデンムシ」と呼ぶ生き物を東海地方と北九州では「マイマイ」と呼び、さらに遠い関東などでは「カタツムリ」と呼び、辺境の東北と南九州では「ナメクジ」と呼ぶという分布に着目した柳田は、新しい言葉が都を中心に東西(南北)に波状的に広がり、都から遠方になるほど、古い言葉が残るものとした。このような例は他にも見られる。メディアなどない昔にも都の言葉の影響力は強い。「そやさかい」のように理由を示す「さかい」は関西弁として有名だが、日本海沿いに青森にまで伝播し、「すけ」と変形した。上方と東北地方の日本海岸は北前船の交易で結ばれていた。そのせいか、秋田県には「京谷」「越前谷」「加賀谷」「能登谷」「越中谷」「越後谷」という苗字が多い。「谷」は「や」と読み、「屋」と書く人もいる。青森県出身の太宰治の短編に「ダス・ゲマイネ」というのがあるが、これは、「平凡なもの」という意味のドイツ語と津軽弁の「だすけぇ、まいねぇ(だからだめなんだ)」との掛詞になっているという。

 しかし、都の影響ばかりを強調することは、それぞれの地方における独自の言葉の変化を見落とすことになるであろう。東北弁はよく「ズーズー弁」と呼ばれる。「し」と「す」、「じ」と「ず」の区別がないため、「ズーズー」という音が他の地域の人の耳につきやすいからである。よく、東北弁では「し」「じ」と「す」「ず」が逆になるという人がいるが、そうではなく、両者の中間的な音になっていて区別がないのである。「椅子」を東北人がいうと他の地域の人のいう「いす」と同じではないため、「いし」のように聞え、「石」というと「いす」のように聞えるというだけにすぎない。東北弁ではこのほかに、「き」の音が「ち」に近く聞える。東北地方には「降りる」ことを「おちる」という地域があり、そのへんの駅では「おちる人がしんでからお乗りください」という物騒なアナウンスをしているというが、真偽はたしかめていない。なお、松本清張の『砂の器』で有名になった話だが、西日本の中で鳥取、島根の両県にかけて、飛び地のように「ズーズー弁」の地域がある。しかも、「ひ」と「ふ」、「み」と「む」まで同じ音になっているというから、東北地方の上を行く。大学時代、島根県平田市出身の友人がいた。「平田では平田のことを『うんしゅう(=雲州=出雲)ふらた』というそうだな」と、本で読んだ話をもとに聞いてみると、「そんな言い方はしない」という。「おんすーふらだ」というというので「参った」と思った。彼の「標準語」にはまったくなまりはないので、まさにバイリンガルだと思ったものである。

 「ズーズー弁」への変化は、都とは無関係に、東北地方で独自に起った。しかし、これにつながる変化は都でも起っていた。昔の日本語では「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」も区別されていたのである。この区別は、高知県などでは最近まで保たれ、「四つ仮名弁」と言われた。江戸時代にこの問題を論じた書物に『蜆縮涼鼓(けんしゅくりょうこ)集』というのがある。「蜆縮涼鼓」はそれぞれの字が「しじみ」「ちぢみ」「すずみ」「つづみ」と読めることからつけられた書名である。土佐の四つ仮名弁に対し、都など大半の地域の言葉は「二つ仮名弁」となったが、「ズーズー弁」は「一つ仮名弁」であり、言わば一つの方向を極限まで進めた日本語のトップモードということになる。しかし、東北地方でも、岩手県の北上山地のような他の地域と隔絶したところでは、、「ズーズー弁」への変化が起らなかった。しかし、こういった地域も、他の地域との交流が進むにつれ、「ズーズー弁」化していった。このような地域の中心にある岩泉という町に、学生時代に行ったことがある。山また山の中に忽然として現われたひものように細長い町の様子は強く印象に残っている。龍泉洞という鍾乳洞が観光名所として有名である。

 方言周圏論に見られる中心地からの伝播ということもあるとはいえ、それが言語の変化を引き起こすすべてだとまでは言えない。どの方言もある点では保守的であり、ある点では革新的である。関東の「そうだべ」の「べ」は、古語の「べし」に、静岡や山梨の「ずら」は「ずやあらむ」に、中国地方などの「けん」は、古典にも現われる「けに」に由来する。「け」は、「ため」にあたる形式名詞で、『大鏡』には、「御手もわななくけにや(御手もふるえるからであろうか)」のように用いられている。こういった現象をとらえて「方言は保守的だ」というのであろうが、日本語なのだから、古い言葉を受け継ぐのは当然のことであり、それにあたる表現が中央でたまたま用いられなくなっているから目立つだけにすぎない。「方言は保守的だ」という言い方には、どうしても中央の優越意識を感じてしまうのである。どこの言語にも言語である限り新しい変化を引き起こす力はあるのであり、政治的に力を持つ地域の言語だけにそういう力があるということはできない。

追記 愛媛県川之江市に育った読者からのメールによれば、「去ぬ(いぬ)」は、つぎのように使うということである。 「もういなんかい(もう帰りなさい)」、「まだいなんのかい(まだ帰らないの?)」「いぬんかい?(帰るのか?)」「もういぬ!(もう帰る!)」「いぬとき(帰るとき)」「まだいねん(まだ帰れない)」「いのわい(帰ります)」「いんだ(帰った)」「いんでこ-わい(帰るわ)」...。また、「一月はいんだ」「二月はにげた」「三月はさった」と言うそうである。

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