「アナログ」「デジタル」という言葉を初めて聞いたのは、時計についてだったと思う。針のある従来型の時計をアナログ、数字がパタパタと入れ替わるのをデジタルと理解していた。しかし、これは正確ではない。駅にある時計には針があるのだが、たとえば、1時をさしてからしばらく針はまったく動かない。そして、1分間が経つと1分間分、長針が一挙に動く。このような時計は、見かけはアナログでも実質はデジタルだということができるだろう。 オウムや九官鳥が言葉を真似るとはいっても、その言葉に意味はない。あるとき、桃太郎の話を最初から最後まで語るセキセイインコが迷子となって保護された。ところがその語りには、「バタンバタン」というような妙なBGMがつく。身元が分かってみると、このインコは、織機工場のある家で飼われていたのであった。意味のある音とない音を区別することは、インコにはできないのである。 分節化された言葉が人間の口をついて出るのは、人間の頭の中ですでに分節化が行われているからである。人間が出す音声には人により時により無数の変異がある。無数の変異を人間は、「イ」なら「イ」という一つの音として聞こうとするから言葉は通じる。このように、分節化には、単に分けるだけでなく、分けたものをまとめて一つのものとして考えるという面もある。しかし、そのまとめ方は実は集団によって微妙に異なる。方言の差によって会話が通じないということが起きるのはこのためである。これが違う言語の間となると、切り方、まとめ方の違いはさらに大きくなる。英米人のいうlightとrightを日本人の多くは区別できず、日本語の「尿」と「仁王」は英米人には同じように聞こえる。 音の分節化よりさらに重要なのが、対象の分節化である。人間の成長は連続的なものであり、個人差も大きいが、言葉はそれを「おとな」と「こども」に分節化する。その上で、言葉は、「まだ中学生だが、こういう点では大人だ」という具合に、分節化された語を組み立てることで、対象をより正確に表現するのである。しかし、デジタル画像がどんなに画素を増やしても実景そのものではないように、言葉による表現が対象を完璧に表すということはありえない。ただ、その誤差が、人間の意図する範囲内であれば、言葉は十分に役割を果たしたといえるのである。分節化は、新たな事物の創造である。火星は人類が誕生する以前からあるではないか、と言われそうだが、では「雑草」とか「害虫」という言葉はどうだろうか。雑草も害虫もただ生きているだけであって、人間がどう思っているかなどということに頓着していない。人間にとって役に立たなかったり害があったりするから、そのように呼ばれるに過ぎない。 最近、翻訳ソフトの開発が進んでいる。言葉がそれ自体デジタルなものであるから、この方面の研究がさらに大きな成果をあげることは期待できる。しかし、私たち一人一人の感情や経験は決してデジタルなものではない。翻訳ソフトを利用しながら、それに利用されない、ソフトよりさらに柔らかいソフトを自分の頭の中にたくわえることが、これからの人類に求められているのではないだろうか? |