「デジタル」とは
どういうことか?

2進法による数え方。
両手を使えば
1023まで数えられる。
szksrv画像書庫
(中部大学)提供。

 「アナログ」「デジタル」という言葉を初めて聞いたのは、時計についてだったと思う。針のある従来型の時計をアナログ、数字がパタパタと入れ替わるのをデジタルと理解していた。しかし、これは正確ではない。駅にある時計には針があるのだが、たとえば、1時をさしてからしばらく針はまったく動かない。そして、1分間が経つと1分間分、長針が一挙に動く。このような時計は、見かけはアナログでも実質はデジタルだということができるだろう。

 「デジタル」という言葉は、ラテン語のdigit(指)の形容詞形であり、指を一本一本折って数えるように、切れ目のある単位の上に成り立っていることを示している。鍵盤からなるピアノはデジタルな楽器であり、弦を押さえる指をずらして音の高低を連続的に出せるバイオリンはアナログな楽器ということになる。手書きの文字はアナログであり、書道では「勢い」が重視される。これに対して、パソコンで入力する文字はデジタルで、一つ一つの点(ドット)が白か黒かで示される。初期のパソコンの文字が読みにくかったのは、ドット数が少なすぎたからである。

 それから、いくらも経っていない今日、絵や写真までデジタルで表示されるようになった。点の数や点の色の種類を増やすことで、アナログの絵や写真と見分けがつかない画像が巷に氾濫するようになった。もちろん、理屈の上ではデジタルはどこまで精密になっても「にせもの」にすぎないのだが、人間の目がそれを見破る限界を突破すれば、アナログとの違いはもはや意味を持たないとされるのである。

 こうして、世はあげてデジタル化に向かっているが、実はデジタル化への流れは、人類がホモ・サピエンス(知の人)となったときに、すでにその下地が出来上がっていたのである。サルの一種に過ぎないヒトが人類となったのは、言葉の獲得によってであったが、この言葉自体が実はデジタルなものなのである。

 オウムや九官鳥が言葉を真似るとはいっても、その言葉に意味はない。あるとき、桃太郎の話を最初から最後まで語るセキセイインコが迷子となって保護された。ところがその語りには、「バタンバタン」というような妙なBGMがつく。身元が分かってみると、このインコは、織機工場のある家で飼われていたのであった。意味のある音とない音を区別することは、インコにはできないのである。

 哺乳類の場合は、意味のある音声を交換していることが確認されている。ニホンザルは30種類ぐらいの叫び声を聞き分けて、集まったり散ったりしているらしい。イルカやゾウも、周波数が高すぎたり低すぎたりして人間の耳には聞こえないが、たえず情報を交換しているという。ゾウは、物静かな動物のように見えるが、実は低周波でたえずおしゃべりをしているらしい。では、こういった動物たちの「言葉」と人間の言葉はどこが違うのであろうか? 一言で言って、それは「分節化」が行われているかどうかの違いである。

 見なれぬものをを見かけたときのサルの叫びは、それ全体が一つの意味を持っていて、それ以上細かく分けることができない。これに対して、「ヘンナヤツガキタゾ」という人間の言葉は、「ヘン・ナ・ヤツ・ガ・キ・タ・ゾ」とそれぞれ意味を持つ単位に分けることができる。「分節化」とは、言葉が竹の節のような切れ目を持ちながらつな 驎 。「分節化」とは、言葉が竹の節のような切れ目ヤツ」は、それ以上細かく切ると意味をなさなくなるが、音声の面では[j-a-ts-u]という具合に、さらに細かく分けることができる。人間の言語は、このように、二重に分節化しているところに特徴があるとされる。切れ目を入れ、それをあとで組み立てるという方法は、ある意味ではひどく遠回りな感じもするが、このことによってこそ、伝えられる情報の量は、飛躍的に増えたのである。

 分節化された言葉が人間の口をついて出るのは、人間の頭の中ですでに分節化が行われているからである。人間が出す音声には人により時により無数の変異がある。無数の変異を人間は、「イ」なら「イ」という一つの音として聞こうとするから言葉は通じる。このように、分節化には、単に分けるだけでなく、分けたものをまとめて一つのものとして考えるという面もある。しかし、そのまとめ方は実は集団によって微妙に異なる。方言の差によって会話が通じないということが起きるのはこのためである。これが違う言語の間となると、切り方、まとめ方の違いはさらに大きくなる。英米人のいうlightとrightを日本人の多くは区別できず、日本語の「尿」と「仁王」は英米人には同じように聞こえる。

 音の分節化よりさらに重要なのが、対象の分節化である。人間の成長は連続的なものであり、個人差も大きいが、言葉はそれを「おとな」と「こども」に分節化する。その上で、言葉は、「まだ中学生だが、こういう点では大人だ」という具合に、分節化された語を組み立てることで、対象をより正確に表現するのである。しかし、デジタル画像がどんなに画素を増やしても実景そのものではないように、言葉による表現が対象を完璧に表すということはありえない。ただ、その誤差が、人間の意図する範囲内であれば、言葉は十分に役割を果たしたといえるのである。分節化は、新たな事物の創造である。火星は人類が誕生する以前からあるではないか、と言われそうだが、では「雑草」とか「害虫」という言葉はどうだろうか。雑草も害虫もただ生きているだけであって、人間がどう思っているかなどということに頓着していない。人間にとって役に立たなかったり害があったりするから、そのように呼ばれるに過ぎない。

 最近、翻訳ソフトの開発が進んでいる。言葉がそれ自体デジタルなものであるから、この方面の研究がさらに大きな成果をあげることは期待できる。しかし、私たち一人一人の感情や経験は決してデジタルなものではない。翻訳ソフトを利用しながら、それに利用されない、ソフトよりさらに柔らかいソフトを自分の頭の中にたくわえることが、これからの人類に求められているのではないだろうか?

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