では、ヒトの子が生まれ、その中で育つ環境とは、どのようなものであろうか? その環境は、ヒトの子しか経験できない独得なものである。ヒトの子の周りには、いつとも知れぬ遠い昔から蓄積されてきた言語文化を身につけた人々によって組織された「社会」が広がっている。その真っ只中に、ヒトの子はオギャーと生まれ、「社会」の中の存在となるように育てられる。そして、人間の社会とは言葉の飛び交う社会であり、「言葉」によって組織された社会なのだから、「言葉」がヒトの子の成長に及ぼす力は計り知れない。 しかし、「社会」は、この地球上において一様ではない。「社会」を組織する「言葉」も地域によってまるで違う。そして、社会のあり方は、言葉によってかなりの程度まで規制を受ける。たとえば、私たち日本語人は、「兄」と「弟」、「姉」と「妹」とを言葉で区別する社会に生まれた。そして、「兄」「弟」「姉」「妹」というのが、どのような存在であるのか、あるいはどのような存在でなければならないのかを学びながら育ってきた。そのため、年齢を区別せずbrother,sisterという言葉を用いる社会で育った子供とは違った扱いを大人たちから受け、みずからも自分の同胞(はらから)に対して違った接し方をするようになる。そういった過程(課程?)と「兄・弟・姉・妹」という言葉を身につける過程とは分離できないものとして一体として進んでゆく。さらに「僕」とか「私」とか「俺」とかいった言葉を使い分けるようになれば、自称を使い分けることのない言語のもとで育つのとは異なる自我が、日本語によって形成されたことになるのである。。 言語が違うと、誤解の可能性は格段に高まる。「蛸」と聞いて思わず生唾を飲み込む日本人と、"octopus"と聞いただけで不気味な怪物を思い浮かべるイギリス人との間では、意志の疎通がうまく行かないときも多いだろう。言語には、それぞれ異なった連想の体系がある。ある特定の言語の連想体系が、私たちの人格の中核をなしているのである。言語が違っても、通訳、翻訳によって意思の疎通がある程度可能になるのは、地球上の人類がすべて一つの種(しゅ)に属し、同じような身体と生理をもっているため、その生活もおのずから似たものになるからである。そのため、言語も文化も社会も、互いに違いよりは共通性の方が大きい。しかし、「自分」とは何かという微妙な点になってくると、言語の壁は決して薄いものでも低いものでもない。 物質文明のあまりの落差に驚いた明治のころ、森有礼という文部大臣が、日本語を廃止して英語を国語にしようと唱えたことがある。国家が戦争に負けたぐらいのことで、日本の文化までが否定されたかのように思い込んだ第二次大戦後、志賀直哉という作家が、フランス語を国語にしようと唱えたことがある。いずれも、日本の文化が、ひいてはこの社会を形成する私たち一人一人の人格が、言語とは無縁に成立しているような錯覚に陥っていたと言わざるをえない。日本語の場合、文化を作り上げる連想体系は、音声のみならず文字を通じても緻密に組織されている。薄っぺらな漢字廃止論には、そのことへの自覚が欠けている。森や志賀の場合、言語が大切なものだという認識を一面では持っていたのであろうが、そもそも物質文明などどんな言語を用いていても成立するものだという認識を欠いている。人類が大昔から言語の壁を越えて交易を続け、さまざまな物資が地球上に行き渡るようになったという歴史が、そこでは忘れられているのである。 |