小渕内閣当時に「英語第二公用語化」なる答申が出されたのに続いて、今度は文部大臣の諮問機関である「英語指導方法等改善の推進に関する懇談会」なるものが、英語教育を「小学校のできるだけ早い段階、できれば1年生から始めるのがいい」ということで合意した。今は「中間まとめ」という段階だという(2000.5.17毎日)。ただ、教科として位置付けて一律に授業を行うことには、委員の間にも疑問の声が強く、「総合的な学習の時間」や特別活動での指導を提案する方向だという。どうやら、歌や遊戯を中心にして英語に楽しく親しませるということらしい。
ことの発端は日本人の英語力が弱いということにあるらしい。留学のための英語力をはかるトーフル(TOFEL)の成績がアジアでも最下位に近いことは確かなようだ。しかし、数字というものは、その内容を仔細に点検しないと判断をあやまる。トーフルの受験者数は、日本がアジア諸国の中でもきわだって多い。受験業界では東大とか京大とかいった特定の大学の入試のための模擬試験がある。しかし、そのような試験の受験者数は学校によってまちまちであり、百人単位で受ける学校もあれば、二、三人しか受けない学校もある。このように分母が大きく違う集団同士で順位を決めるのはあまり意味がない。トーフルの成績も同じことではないだろうか? 受験者の顔ぶれも違う。途上国からトーフルを受けるのは一握りのエリートである。留学への熱意も高い。しかし、日本からのトーフル受験は大衆化している。そして、必ずしも留学にこだわっているわけでもない。中には国内で志望の大学が難しいからということで留学を考える者もいる。そうなれば平均点が下がるのは当然ではないだろうか? バイリンガルとは、二つの言語のどっちで話しても、ネイティブ・スピーカーと区別のつかない人のことである。身近な例として私が知っているのは、在日一世の私の養父である。電話がかかる。朝鮮語で会話が始まる。突然、「ところが」という日本語が入る。そこからあとの会話はしばらく日本語になる。また突然「クロニカ(だから)」という朝鮮語が入る。会話はまた朝鮮語に戻るということの繰り返しである。私が「いま、日本語と朝鮮語とチャンポンで話していたね」というと、「えっ? そうだったか?」という。本人はまるで意識していない。これは、電話の相手も同じようなバイリンガルであって初めて成立する会話である。バイリンガルにはなるには、実生活の中で新たな言語と格闘することが不可欠であり、学校教育だけでなれると考えるのは安易に過ぎるというほかは無い。 どのみち子供たちをバイリンガルにするのが不可能であるのなら、英語を学ぶとしても、ネイティブ・スピーカーと区別がつかないほどにする必要はなく、会話がとどこおりなくできればいいということになる。それならば、英語教育を小1から始めずとも、中学校からでも十分であろう。中学、高校の英語教育の充実を考えた方が、予算的にもはるかに安上がりであることはいうまでもない。英語の早期教育をあせる理由の一つは発音にあるらしいが、ピアノやバイオリンと外国語は違う。ピアノやバイオリンは演奏それ自体を聞かせるのだが、言葉は言葉を通して意思を伝えるのである。ただ、意思を伝えるためにも、最低限の音声的な正しさは必要だろう。しかし、これは中学や高校の英語教員の音声学の素養を高めることで解決される。このような研究や努力が日本ではこれまでほとんど行われてこなかった。駅などで日本語で話しかけてくるモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の伝道師に会った人は多いだろう。テレビ・タレントとなったギルバートとデリカットという二人のケント氏も元は伝道師であった。彼らはわずか数ヶ月の日本語教育を受けてあそこまで話せるようになるのである。そのノウハウを学ぶことこそ先決なのではないだろうか?その上で、英語を話す必要や意欲のある人に限って効率的な教育を施すことのできる機関を充実させるために国費を支出するのなら、私は少しも反対しようとは思わない。そのほうがよっぽど効率もよいはずである。 欧米人に話しかけられると逃げ出す日本人が多い。手持ちの英語以外にも、筆談、ジェスチャーなど、手段はいくらでもあるはずなのにと思う。"Pardon?(はっ?)""Would you speak a little more slowly?(ゆっくりお願いします)"の二つの表現を臆面もなく言い、相手を自分のペースに合わさせるだけでもずいぶん違う。相手も少しは日本語を知っていることも昔と違って珍しくない。そういった手段を駆使した会話をさらっとできるようになってこそ初めて日本人は国際化したと言える。いま提案されようとしている小1からの英語教育が、このような心の国際化を推進する方向にではなく、妨げる方向に働くと思うのは杞憂なのであろうか? 日本語は話し手の数からいっても世界有数の大言語であり、現代に対応する語彙も備えており、メディアによって高度に組織化されている。小1からの英語教育で日本語がなくなるなどということはありえないが、さまざまないびつな結果を生むという危惧を私は感じている。それよりは、もっと日本語を大事にしてほしいと思う。また、どの外国語も学べば難しい。学ぶうちにその言語を話す人々への敬意も自然に湧いてくる。英語だけをやって英語を話す人ばかりが偉いと思うとしたら考えものである。総合学習などで国際理解を促すというのなら、さまざまな言語を話す人々を6年間かけて呼んでくればいい。 |