小1から英語教育なんて出来るのか?

 小渕内閣当時に「英語第二公用語化」なる答申が出されたのに続いて、今度は文部大臣の諮問機関である「英語指導方法等改善の推進に関する懇談会」なるものが、英語教育を「小学校のできるだけ早い段階、できれば1年生から始めるのがいい」ということで合意した。今は「中間まとめ」という段階だという(2000.5.17毎日)。ただ、教科として位置付けて一律に授業を行うことには、委員の間にも疑問の声が強く、「総合的な学習の時間」や特別活動での指導を提案する方向だという。どうやら、歌や遊戯を中心にして英語に楽しく親しませるということらしい。

国名 受験者数 平均点
フィリピン 92 584
インド 30658 563
スリランカ 57 571
中国 70760 562
ネパール 71 560
インドネシア 87 545
パキスタン 6274 542
マレーシア 218 536
韓国 61667 535
ベトナム 531 530
香港 9427 524
バングラデシュ 3865 515
ミャンマー 867 515
タイ 15054 512
台湾 32967 510
北朝鮮 336 510
マカオ 556 506
日本 100453 501
アフガニスタン 153 493
カンボジア 102 488
ラオス 49 466
朝日新聞2000.1.26朝刊より

 ことの発端は日本人の英語力が弱いということにあるらしい。留学のための英語力をはかるトーフル(TOFEL)の成績がアジアでも最下位に近いことは確かなようだ。しかし、数字というものは、その内容を仔細に点検しないと判断をあやまる。トーフルの受験者数は、日本がアジア諸国の中でもきわだって多い。受験業界では東大とか京大とかいった特定の大学の入試のための模擬試験がある。しかし、そのような試験の受験者数は学校によってまちまちであり、百人単位で受ける学校もあれば、二、三人しか受けない学校もある。このように分母が大きく違う集団同士で順位を決めるのはあまり意味がない。トーフルの成績も同じことではないだろうか? 受験者の顔ぶれも違う。途上国からトーフルを受けるのは一握りのエリートである。留学への熱意も高い。しかし、日本からのトーフル受験は大衆化している。そして、必ずしも留学にこだわっているわけでもない。中には国内で志望の大学が難しいからということで留学を考える者もいる。そうなれば平均点が下がるのは当然ではないだろうか? 

 英語を話す必要のある人、あるいは意欲のある人のために英語教育を充実させることには、私もまったく異議はない。しかし、私が危惧するのは必要も意欲もない人にまで英語を強要することで、さまざまなゆがみが生じるのではないか、ということなのである。小1から、英語を総合学習や特別活動で教える場合、上手に指導すれば、子供たちは初めのうちは喜ぶかも知れない。しかし、今の受験体制下では、英語はいずれ選別のための第一の手段と化することになる。子供たちがそれに気づくのに、さほど時間はかからない。そのとき、「だまされた」という気になって、かえって英語学習の意欲を失うということも考えられないではない。学校を出てからも英語に接する機会の少ない大半の日本人には、英語がきっかけとなって、さまざまな心のゆがみが生じるように思えてならない。

 早期英語教育については、私は、はたして必要なのかという疑問のほかに、はたして可能なのかという疑問も感じている。いまの小学校の先生は英語を教えることを前提に採用されているわけではない。とすれば、英語のネイティブ・スピーカーを大量に雇わなければならない。それだけの人数を確保できるのだろうか? 仮にいたとしても、いったん日本の学校の教壇に立った外国人が定着するほど、日本の学校は居心地のいい所になれるのだろうか? 日本の文部行政は、学校に外国人が入ることをひどく嫌う。なにしろ、日本に来て三代目、四代目で、日本語しか話せない在日韓国・朝鮮人すらなかなか雇おうとしないのである。地方の教育委員会が独自に決めて、「在日」の教員を採用しても、中央から「指導」という名のクレームが入る。そのせめぎあいの結果、現在では、「在日」の教員希望者は、「常勤講師」という名で採用されている。身分は一応安定しているが、重要な校務にたずさわることはできない。しかし、文部省のこの指導が徹底する以前に「教諭」として採用された人を今さら「常勤講師」に降格することはできない。そういう経緯で、日本の公立学校に「教諭」として勤めている「在日」の人を私は何人か知っている。

 英語国民を小学校の教壇に招くとして、その身分はどうなるのであろうか? 日本が気に入り、教育という仕事が気に入った人なら、日本人教員と同じ資格で勤めたいと思うのは当然のことだろう。「在日」はとらないが英語国民なら採用するとすれば、それは差別以外の何物でもない。ただ、いま、日本の学校に英語の補助教員として勤めている英語国民は、ひどく薄給であり、まるで生けるテープレコーダーのような扱いを受けている例が多い。これは、ひどく失礼なことではないのだろうか? また、民間の英会話教室などでは、中国系やフィリピン系などのアメリカ人が高学歴であっても雇われない一方で、スペイン人が雇われているケースもあるという。日本人が中国語を教えるようなものだと思うのだが、こういう差別を公的機関が行うことは許されないだろう。

 今度の中間まとめを出した委員たちも、まさか日本の子供たちを「バイリンガル」にしたいとは思っていないだろう。第一そんなことは不可能なことである。そのことを知る上で、絶好の材料として、委員たちはあまり知らないのだろうが、日本にある朝鮮学校や、数はぐんと少ないが、韓国学園や中華同文学校がいい先例となる。こういった学校では小1から朝鮮(韓国)語や中国語を教えている。その成果は高く、本国の放送をかなり聞き取ることもできるようになってはいるのだが、子供たちの母語(母国語ではない)は日本語のままである。朝鮮学校の卒業生同士の会話には、「これイムニカ?」などという表現が入る。「これ」は日本語であり、「イムニカ」は日本語の「ですか?」に当たる。学内の授業はすべて朝鮮語だが、登下校時の生徒同士の会話はほとんど日本語である。

 バイリンガルとは、二つの言語のどっちで話しても、ネイティブ・スピーカーと区別のつかない人のことである。身近な例として私が知っているのは、在日一世の私の養父である。電話がかかる。朝鮮語で会話が始まる。突然、「ところが」という日本語が入る。そこからあとの会話はしばらく日本語になる。また突然「クロニカ(だから)」という朝鮮語が入る。会話はまた朝鮮語に戻るということの繰り返しである。私が「いま、日本語と朝鮮語とチャンポンで話していたね」というと、「えっ? そうだったか?」という。本人はまるで意識していない。これは、電話の相手も同じようなバイリンガルであって初めて成立する会話である。バイリンガルにはなるには、実生活の中で新たな言語と格闘することが不可欠であり、学校教育だけでなれると考えるのは安易に過ぎるというほかは無い。

 どのみち子供たちをバイリンガルにするのが不可能であるのなら、英語を学ぶとしても、ネイティブ・スピーカーと区別がつかないほどにする必要はなく、会話がとどこおりなくできればいいということになる。それならば、英語教育を小1から始めずとも、中学校からでも十分であろう。中学、高校の英語教育の充実を考えた方が、予算的にもはるかに安上がりであることはいうまでもない。英語の早期教育をあせる理由の一つは発音にあるらしいが、ピアノやバイオリンと外国語は違う。ピアノやバイオリンは演奏それ自体を聞かせるのだが、言葉は言葉を通して意思を伝えるのである。ただ、意思を伝えるためにも、最低限の音声的な正しさは必要だろう。しかし、これは中学や高校の英語教員の音声学の素養を高めることで解決される。このような研究や努力が日本ではこれまでほとんど行われてこなかった。駅などで日本語で話しかけてくるモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の伝道師に会った人は多いだろう。テレビ・タレントとなったギルバートとデリカットという二人のケント氏も元は伝道師であった。彼らはわずか数ヶ月の日本語教育を受けてあそこまで話せるようになるのである。そのノウハウを学ぶことこそ先決なのではないだろうか?その上で、英語を話す必要や意欲のある人に限って効率的な教育を施すことのできる機関を充実させるために国費を支出するのなら、私は少しも反対しようとは思わない。そのほうがよっぽど効率もよいはずである。

 欧米人に話しかけられると逃げ出す日本人が多い。手持ちの英語以外にも、筆談、ジェスチャーなど、手段はいくらでもあるはずなのにと思う。"Pardon?(はっ?)""Would you speak a little more slowly?(ゆっくりお願いします)"の二つの表現を臆面もなく言い、相手を自分のペースに合わさせるだけでもずいぶん違う。相手も少しは日本語を知っていることも昔と違って珍しくない。そういった手段を駆使した会話をさらっとできるようになってこそ初めて日本人は国際化したと言える。いま提案されようとしている小1からの英語教育が、このような心の国際化を推進する方向にではなく、妨げる方向に働くと思うのは杞憂なのであろうか? 日本語は話し手の数からいっても世界有数の大言語であり、現代に対応する語彙も備えており、メディアによって高度に組織化されている。小1からの英語教育で日本語がなくなるなどということはありえないが、さまざまないびつな結果を生むという危惧を私は感じている。それよりは、もっと日本語を大事にしてほしいと思う。また、どの外国語も学べば難しい。学ぶうちにその言語を話す人々への敬意も自然に湧いてくる。英語だけをやって英語を話す人ばかりが偉いと思うとしたら考えものである。総合学習などで国際理解を促すというのなら、さまざまな言語を話す人々を6年間かけて呼んでくればいい。

表紙へ


inserted by FC2 system