外来語とともに入った音

戦後になっても、しばらくの間、文字表記は戦前のままだった。1946年のの朝日新聞(大阪)一面の広告。「デューイ」「トラック」などの表記に注意。

 「しゃ、しゅ、しょ」のように、小さい「や・ゆ・よ」のつく音を「拗音」といい、かな1字で書かれる「直音」と対比される。拗音は、古くからの日本語(やまとことば)にはなかった音で、漢語とともに日本語に入ってきた。そのことは、実例をあげてみるとすぐ分かる。

 しかし、漢語での拗音の使用例には、かなりの制限がある。「や」で終わる拗音のうち、「きゃ、ひゃ、りゃ、びゃ、ぴゃ」」は「客、百、略」のように「○ゃく」という形でしか用いられない。「○ゃん」という音がないため、「きゃん」という沖縄の姓を表すのには、「喜屋武」のように3文字も必要になってくる。「ゅ」のつくものでは、「きゅ、ちゅ、にゅ、りゅ、ぎゅ、びゅ」が「う」をつけた長音としてしか用いられない。とくに「びゅ」は、「謬」という、あまり知られていない字一つに限って使われる。「ょ」のつくものでも、「ひょ、みょ、びょ、ぴょ」がやはり長音としてしか用いられない。

 さらに、上にあげた例には、「ひゅ」「ぴゅ」「みゅ」が抜けている。「ひゅ」は「日向(ひゅうが←ひむか)」という国名に見られるが、「ぴゅ」は風の音を示す擬音語にしか用いられない。「みゅ」については、ミュータントやミュージックなどの外来語にはあるが、日本語を和語と漢語に限定すれば、ちょっと例が思いつかない。そのため、金田一春彦氏はこれを日本語の音節表から外すべきだと提唱しかけた。ところが、ちょうどそのころに、「大豆生田(おおまみゅうだ)」という苗字の人に出会ってやめたという。「大豆生田」は4字姓の中では最も多い姓の一つで、栃木県に集中しているが、読み方としては「おおまめうだ」の方が多い。

 訓令式の拗音のローマ字表記は、「ちゃ」を"tya"と書くように子音と母音の間にYを入れるということで一貫しているが、ヘボン式では、"cha"と書かれる。直音の表記で、二つの表記方式の間で違いがみられるのは、「し(si,shi)」「ち(ti,chi)」「つ(tu,tsu)」「ふ(hu,fu)」「じ(zi,ji)」の五つである。アメリカ人であるヘボンにとっては、"sea,tea,two,who,Z"の音とは違うと感じられたからである。これに対し、「ティ」「トゥ」などの音を知らない日本人の感覚では、わざわざchi,tsuなどという表記をするには及ばない。訓令式は、このような日本人の感覚に即した表記だといえよう。これに対し、「しゃ」「しゅ」「しょ」「ちゃ」「ちゅ」「ちょ」「じゃ」「じゅ」「じょ」といった拗音は、欧米語の影響を受ける以前から既に、「しや」「しゆ」などとは別の音だとして日本人に意識されていた。

 外国語を知らない日本人には、「か」という音節をKとAという「単音」に分ける感覚はない。しかし、「職」と「私欲」は区別できるのだから、潜在的には単音の感覚があるとも言える。そのため、外国語を学んだ日本人の中から、たとえば「ティ」を「チ」と表記することに抵抗を感じる者が出てきた。「ティ」を構成するTもIも、それ自体は日本語でもおなじみで、ちょっとなれれば、発音するのはさほど難しくはない。こうして、子音と母音の組み合わせの「穴」を埋めるようにして、「シェ」「ディ」「フォ」「ウェ」などの音が入り、それに対応するかな表記も考え出された。「ツァ」「ツィ」「ツェ」「ツォ」といった音は英語にはなく、「ツァーリ」「ツィター」「ツェッペリン」「カンツォーネ」といった表記は、ロシア語、ドイツ語、イタリア語などからの外来語の表記に限って用いられている。なお、ここに挙げた音節の多くは昔の日本語にもあり、方言なら今でも残っている例は多い。

 「デュ」は「デュエット」「デュオ」などに用いられるが、「テュ」という表記は、"tulip"を「テューリップ」と書くなどの応用例が考えられるのにもかかわらず、一般化していない。"season"を「スィーズン」と書くのも一般的ではない。そういう意味では、区別する必要の有無はかなり恣意的に決められている。もっとも、「テュ」の場合は、そのような発音が英語(とくに米語)でも衰退しているという事情がある。KやPの場合は、「キュート」「ピュア」といった発音がきちんと保たれているが、「ニューヨーク」は「ヌーヨーク」、「テューリップ」は「トゥーリップ」となりがちである。「鼻と顎の間にある花はなあに」というのに対して、"tulips = two lips"と答える英語のしゃれを見たことがある。

大名古屋ビルヂングは、JR名古屋駅の桜橋口を出てすぐの所にある。昔は新幹線の車内からも見えたが、今は大きな駅ビルにさえぎられて見えない。

 今日、ディズニーランドを「ジズニーランド」と発音する人は、よほどの年配者以外にはいないだろうが、昔は外来音を苦手とする人がよくいた。学生時代のタバコ屋のおばあさんは、「チェリー(タバコの銘柄)下さい」というと、そのたび「エ」の音をひときわ高く響かせて「チエリーでっか?」といっていた。横山ノック元大阪府知事は、進駐軍の通訳を務めたこともあるはずだが、「ラブアタック」という番組の司会をしていたとき、「ベルベデアのデナー券」といっていた。このような名残は今も「フアン」「フイルム」「ウイスキー」といった語に残っており、「ファン」「フィルム」「ウィスキー」といった発音と共存している。名古屋駅前には、「大名古屋ビルヂング」という文字通り大きいビルがある。これぐらい堂々と書かれると、思わず納得してしまう。「ビルジング」ではなく、「ビルヂング」であるのも面白い。

 このように見てくると、外来音を取り入れるといっても、それまでの日本語に下地のあった音だけが取り入れられていることが分かる。そのため、RとLの区別などは今もまったく行われていない。ところが、一方で、口ではまったくといってよいほど区別されていないのに、よく行われている外来音表記として「ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォ」という表記である。しかし、「ヴァイオリン」を文字通りに読む人は皆無といってよく、読むときには「バイオリン」と何らの変わりもない。BがPに対応する有声音であるのと同様、欧州諸言語のVはFに対応する有声音である。ところが、このFは日本人が「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」というときの子音ではない。「ファ」などの子音が両唇を近づけ、その間で息を摩擦して出す音であるのに対して、欧州諸言語(たまたま中国語も同じだが)のFは、下唇を上の前歯に軽く当てて息をこする音である。そのため、BとVとの区別も比較的容易になるのだが、スペイン語でVがBに合流しているように、有声音となるとやはり区別しにくいようだ。まして、日本人がBとVとを区別することは不可能に近い。「ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォ」という表記には、やはり「ええかっこしい」という意味しかないようである。なお、Vは日本ではBと区別するため、よく「ブイ」といわれるが、英語では「ヴィー」であり、大半の日本人には「ビー」と区別がつかない。

 「ちゃ」「ちゅ」「ちょ」のような拗音の「や・ゆ・よ」を小さく書くことが定着したのは、ようやく戦後のことである。「猪口」も「千代子」も「ちよこ」と書かれるのが普通だった。なぜ、最初から「や・ゆ・よ」と小さく書くという工夫がなされなかったのだろうか? 実は漢字漢語を取り入れたころの日本語では、「たちつてと」は「タ、ティ、トゥ、テ、ト」と発音されていた。したがって、「ちょ」は「ちよ」と書かれ、「ティヨ」と発音されていたと考えられる。それと区別されるchという発音はなかった。しかし、ある時期から「口蓋化」という現象が起こり、「ち」は「ティ」ではなく、「チ」と発音されるようになった。こうなると「ティヨ」などという悠長な発音をする理由は何もなく、「チョ」と一音節で発音されるようになった。口蓋化は、とくにイ段においては一斉におこり、それまで「ミヤク」と読まれていた「脈」も「ミャク」と読まれるようになったと考えられる。

 西洋語からの外来音が入る前からあった拗音は、今では和語でも使われる。しかし、その多くは、「行けば」から変化した「行きゃ」、「行っては」から変化した「行っちゃ」、「行きませう」から変化した「行きましょう」など、単純化によって生まれたものか、「マッチョ」などのようにやや滑稽な語感のあるものが多い。こうして見てくると、明治以降の西洋語からの外来音の導入も、それまでの日本語の中に下地があるものに限って行われたのである。表記のRとLの区別にしても、表記の上ではどちらかに濁点または半濁点をつけるなどの工夫は考えられるが、BとVの書き分けで発音の区別までできるようになるわけではない例をみても、それでRとLとの発音の区別が日本語の中に生まれるなどということはありえない。 

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