固有名詞の現地音主義は可能か?

 「シャム猫」で知られるように、タイという国は、むかしシャムと呼ばれていた。「シャム」は英語ではSiamと書き「サイアム」と読むが、こちらの方が「シャム」のもとになった「サヤーム」に近い。本国でのタイの正式名称は、「プラテート・タイ」といい、日常会話では「ムアン・タイ」というらしい。このように、国名も時代とともに変わることがよくある。

 タイの首都はバンコクの名で世界中に知られているが、本国でのバンコクの正式な呼び名は、Krungthep Mahanakhon Bovorn Ratanakosin Mahintharayutthaya Mahadilokophop Noparatana Ratchathani Burirom Udom Ratchanivetmahasathan Amorn Pimarn Avatarn sathit Sakkathattiya Amorn Pimarn Avatarn sathit Sakkathattiya Visnukarm Prasitといい、その意味は、「神の都にして偉大なる都、インドラ神の造りたもうた崇高なる宝玉のエメラルド仏像が安置されている大いなる都、九つの宝玉の輝く悦楽の郷にしてインドラによって与えられビシュヌ神が顕現する旧跡」という意味だそうである。しかし、バンコク市民は、これでは長すぎるので、普通は最初だけとって「クルンテップ」と呼ぶ。「バンコク」というのは、中国人がこの町を「盤谷」と呼んだのが世界中に広まったものらしい。

 自国をどう呼ぶかが政治的立場と直結させて考えられる時がある。タイの隣の国はビルマからミャンマーに対外呼称を改めた。しかし、アウン・サン・スー・チーらの反体制派はこれを認めず、英文などでもその後もBurmaと書いている。国内での正式名称はずっと「ミャンマー」で一貫しているが、同時に「バーマー」という呼び方も浸透しており、「ビルマ」はこれに由来する。いまのこの国の状況を私たちの国にたとえるなら、政権が自国を「にっぽん」と称し、「にほん」と言う人に目を光らせているようなものかも知れない。これが私たちの隣の国のように、政権自体が「韓国」と「朝鮮」に分かれたりすると話がさらにややこしくなる。どちらも古くからの自称であり、異民族からの蔑称ではないだけに難しい。

 いま、日本の学校では、外国の固有名詞は現地音でという方向に改められている。「シーザー」は「カエサル」に、「ジンギスカン」は「チンギス・ハーン」にという具合である。私たちの世代が「揚子江(ようすこう)」と呼んだ川も、「ヤンツー川」とカタカナで教えられている。私は現地音主義には基本的には賛成なのだが、いろいろと難しい問題があることも認めざるをえない。

 現地音主義により、むかしは「ベニス」と呼ばれていたイタリアの町も、今では「ベネツィア」と呼ばれるようになっている。考えてみれば、「ベニス」が普及したのは、シェークスピアの『ベニスの商人』のためであろう。日本でのヨーロッパ諸国の国名も、英語によるものが多い。スペイン、フィンランド、ハンガリー、アルバニアなどその例で、それぞれ本国ではエスパーニャ、スオミ、マージャール・オルサーグ、シュキプリアという。しかし、ドイツはジャーマニーとは呼ばず、本国のドイッチュラントをもとにしている。このほか、オランダはポルトガル語での呼び方に基づいており、イギリス、ベルギー、ギリシャなどは、日本でだけ通用する国名である。

 ヨーロッパ諸国では、国名ばかりでなく、都市名も言語により呼び方が違う。イタリアのサッカー・リーグであるセリエAで、ミラノにあるチームは「ACミラン」というふうに、フランチャイズのある都市を英語風に呼んでいる。そう言えば、イタリアの国名自体、日本の年配者には英語風に「イタリー」と呼ぶ人もいる。ビールで知られるドイツのミュンヘンは、英語ではミューニック、イタリア語ではなんとモナコ(フランスの中に島のようにあるミニ国家と同じ)というそうで、ミュンヘン行きの飛行機に乗った日本人がイタリア語の機内放送で「モナコ、モナコ」と連呼するので、乗り間違えたのではないかとパニックを起こしたという話もある。二つの言語を公用語とするベルギーではすべての道路標識がフラマン語(オランダ語に近い)とワロン語(フランス語)で書かれ、それぞれにスペリングが違う。さらにドイツ語地域もあるのだが、この切手には反映されていない。

 さまざまな民族が古くから行き来してきたヨーロッパでは、地名ばかりでなく、人名もキリスト教という共通基盤の上に、言語によりさまざまな変種がある。「ミカエル」「ガブリエル」「サミュエル」など「エル」とつく名はヘブライ語に由来するが、「ミカエル」は英語では「マイケル」、フランス語では「ミシェル」、ドイツ語では「ミヒャエル」、イタリア語では「ミケーレ」、スペイン語では「ミゲル」、ロシア語では「ミハイル」という。映画「ゴッドファーザー」では、二代目のドンとなる若き日のマイケルが、父の故郷のシチリアに逃げていた間、「ミケーレ」と呼ばれていた。

 西欧の場合、ローマ字という共通の文字を持ってはいるが、それをどのように読むかは、言語によりさまざまである。私たちの東アジアには漢字という共通の文字があり、「越南」という国の名はそれぞれの漢字の読み方に従って、中国では「ユエナン」、朝鮮半島では「ウォッラム」、本国では「ヴィエトナム」と呼ばれる。日本でも古くは「えつなん」と呼んだのだが、今では本国の読み方に似せて「ベトナム」と呼んでいる。「日本」は、中国で「リーベン」、朝鮮半島で「イルボン」、ベトナムで「ニャットバン」だ。

 私は、中国の地名は、「ペキン(北京)」「シャンハイ(上海)」「チンタオ(青島)」など北京語に似せた読み方が定着したものを除き、日本語読みでいいと考えている。中国では日本の固有名詞は漢字をそのまま中国語よみする。「東京」は「トンジン」、「大阪」は「ターパン」、「名古屋」は「ミングーウー」という具合だ。それに、中国語の発音をカタカナで書いても、声調も、日本語では区別できない発音の違いも無視するのだから、カタカナどおりに言っても中国人にはさっぱり通じない。それなら、せめて漢字だけでも正確に覚えて筆談に備え、その気のある人はあとで中国語をきちんと勉強すればよい。それに北京を「ペキン(あるいはベイジン)」とカタカナで覚えた場合、その語源も分からない。古くからの漢字を通じての日中の交流を無視した軽薄なグローバリズムのようにも感じる。中国の国内の言語事情に目を転じてみると、「シャンハイ」は北京語よみをもとにしていて、現地では「ソンヘエ」という。多様な音声言語を話す人々を一つの文化にまとめていく上で、漢字の果たした役割は大きい。

 日本の学校では「地理」と「歴史」の足並みもそろっていない。歴史では中国の人名は漢字で書くことを求められる。大学入試で地理で北京を「ペキン」と書いても減点はされないが、歴史で「毛沢東」を「もうたくとう」と書いたら減点されるだろう。「マオ・ツォートン」と書く受験生はめったにいないだろうが、いたら減点でもされるのだろうか? 漢文とも連携しないし、こと中国に関しては、現地音主義は、無用の混乱を招くだけのように思われる。

 さて、問題は朝鮮半島の固有名詞である。韓国の金大中(キム・デジュン)元大統領は、日本で拉致事件にあったときには、「きんだいちゅう」と呼ばれていた。今の朝鮮半島の北では漢字はすでに全廃され、南でもだんだん使われなくなってきている。20世紀の初めに漢字を捨てたベトナムの固有名詞を、もともと漢語式につけられたからといって、漢字の日本語読みにしてハノイを「かない(河内)」、「ハイフォン」を「かいぼう(海防)」と今さら呼ぶのは変であろう。南北朝鮮では日本の地名は表音文字であるハングルにより、すべて日本語読みに近く表記しているので、朝鮮半島の固有名詞を原音に近く読んでほしいという要求も理解できる。

 漢字がだんだん使われなくなってきた韓国で、最近漢字を見直す動きがある。相手が日本だけならそうはならなかったのだろうが、中国との国交回復後、経済、文化などでの交流を考えれば、再び漢字教育を普及させたほうがいいのではないかということからであり、韓国内では大論争になっている。私自身は朝鮮半島で漢字が使われなくなることには心情的に抵抗があり、ベトナムが漢字を廃止したことに対しても淋しい気持ちをもっているが、成り行きを見守るほかはない。

 Jリーグが始まったころ、韓国から来た選手に「河錫舟」という選手がいて、初め「ハ・ソクジュ」と呼ばれていたが、本人の希望で「ハ・ソッチュ」と改めた。では「ソクジュ」が間違いだったのかといえばそうではない。「錫舟」という漢字2文字を一字一字読むときにはそれぞれ「ソク」、「ジュ」なのだが、続けて読むと日本人の耳には「ソッチュ」に近く聞こえるのだ。朴美順という女性の場合、「朴」という姓はそれだけでは「パク」なのだが、「ミスン(美順)」と続けて読むと、「朴」は「パン」となる。固有名詞の現地音主義といっても、このように現地音というものは解釈によっても異なってくる。

 韓国・朝鮮が再び漢字教育に熱を入れ、「東京」「大阪」「名古屋」を再び「トンギョン」「テパン」「ミョンゴオク」と呼ぶようになったのなら、日本人も「釜山(プサン)」「大邱(テグ)」「仁川(インチョン)」を「ふざん」「だいきゅう」「じんせん」と呼んでもいいだろう。そうなると、「野田佳彦」首相は「ヤジョンカオン」と呼ばれ、逆に「李明博」大統領は「りめいはく」と呼ばれることになる。お互いそれは当然だという了解ができればいいのだが、今のところそれは仮定の話でしかない。

 日韓共催のワールドカップが日本で「日韓」とされていることに、韓国サッカー協会の鄭夢準(チョン・モンジュン)会長が異議を唱えている。英語での正式名称であるKorea-Japanと違うというのであるが、これは正直いって鄭氏がおとなげない気がする。何も韓国国内でまで「日韓」といえなどということを日本側が言っているわけではない。「日本海」は英語ではSea of Japanというが、これにも異議を唱える声が韓国にはある。朝鮮半島では日本海は「東海」という。しかし、日本海の東に住んでいる日本人が日本海を「東海」と呼ぶわけにはいかない。しかし、このようなことが起きるのは、かつて私たちの国が隣の国の人たちの心を踏みにじり続けた歴史がある上に、今もそれを正当化しようとする人が跡を絶たないからである。こういった問題は、互いに感情的にならず、じっくりと話し合うほか、解決の道はない。日本と韓国・朝鮮の間でこういう話がこじれやすいのは、ともに単一民族国家という意識が強いもの同士だからという面もある。

 日本海のように、違う言語の間にまたがる地名の場合は、互いに相手の呼び方を尊重するほかはない。しかし、英語が幅をきかす現代では「グローバル」な呼称がどうなるかが問題となってしまう。世界の最高峰は日本を含め、たいていの国で「エベレスト」と呼ばれているが、これはイギリス人の名前である。南極大陸じゃあるまいし、現地の呼び名を無視してふざけるなというわけで、最近では日本でもチベット語に基づく「チョモランマ」という呼称が広まっている。しかし、この山は国境の山であり、ネパール側では「サガルマータ」と呼んでいる。こうなると「サガルマータ」を退けてまで「チョモランマ」をとる理由は何もない。「チョモランマ」か「サガルマータ」かで収拾がつかなくなった場合、「エベレスト」を国際呼称として採用することも、やむをえないことかも知れない。

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