ボディー・ランゲージについて

女性の手話は
「初めまして」、
男性の手話は
「よろしくおね
がいします」。

のフリー素材。

 むかし坂本九が歌った「明日があるさ」という歌がリバイバルし、さまざまなバリエーションで歌われている。坂本九が歌っていた元歌の歌詞(作詞は東京都知事も務めた青島幸男)は好きな女の子に気持ちを打ち明けられないまま空しく時を過ごす純情な男の子の気持ちを歌ったもので、今の若者の中でその気持ちが分かるのは少数派かも知れない。今日も打ち明けられなかったというときの弁解の言葉として「明日があるさ」というリフレインが何度も繰り返される。最近のCMで流されたバリエーションの一つにこういう歌詞がある。「新しい上司はフランス人、ボディーランゲージも通じない」。そのあとこれはチャンスだから勉強しなおそうと続く。何を勉強しなおすのかというと、フランス語である。フランス語の研修を口実に若い男女が勤務時間中に堂々とデートできるチャンスだというのだから、時代も変われば変わるものである。

 ところで、実際、ボディー・ランゲージ(身体言語)は思われているほどには通じない。手のひらを下に向けて指をそろえて手前に引くのは、日本では「おいで、おいで」だが、欧米では「あっちへ行け」という意味になる。欧米で「おいで、おいで」を示すのは手のひらを上に向けて指をそろえて手前に引くサインだが、日本ではこれはせいぜい犬を呼ぶときに使えるぐらいで、人間相手に使うのはいくらなんでも気が引ける。

 ボディー・ランゲージが万国共通でないのは、やはりこれも言語(ランゲージ)の一種だからである。要するに野球のブロック・サインのような約束事である。首を縦に振るのはYES、横に振るのはNOというのは万国共通のように思われるが、これが逆になっている地域もけっこう多いらしい。ブルガリアとスリランカがそうであることをテレビで見た。両者はまるで別の文化圏なのだから、決して特殊なものではなく、縦横のどちらがYESでどちらがNOかというのが、きわめて恣意的な約束事にすぎないことが分かる。これに対し、タバコを吸う仕種は万国共通で意味が通じるだろう。しかし、これはボディー・ランゲージではなく、ジェスチャーにすぎない。

 アメリカ旅行をしたとき、エレベーター・ボーイが椅子に座って乗っているエレベーターがあって驚いた。英語を話すのにうんざりしていた時だったので、無言で人差し指を立てて1階に行ってほしいと伝えた(つもりだった)。ところが、エレベーター・ボーイは、「このエレベーターは下に行くんだ」という。一瞬まごついたが、私の人差し指を見て「上へ行け」という意味にとったらしい。同じ人差し指が「上へ」を意味するのはジェスチャー、「1」を意味するときにはボディー・ランゲージとなる。

 手話となると、これはもう完全な言語である。手話は万国共通のものではなく、日本国内でさえ、東京と大阪の手話は少し違うらしい。親指が男、小指が女というのは、日本(だけかどうかは知らない)のボディー・ランゲージであり、欧米では親指はgood、小指はnot goodを意味する。日本の手話では左右の手の親指と小指を近づけると「結婚」、初めにくっつけて出して放すと「離婚」を意味する。しかし、その意味が分かりやすいのは、親指が男、小指が女という前提のあるところだけでのことである。

 中国では「6」から「9」までの数字が片手で示される。「6」は親指と小指だけを立てて示し、「7」は薬指と小指を折り曲げ、他の3本の指を伸ばしたまま合わせて示す。「8」は親指と人差し指だけを立てて示すが、日本人でもジャンケンでチョキを出すとき、こういうサインをする人がいる(私もその一人)。「9」は人差し指だけを立て、それを折り曲げて示す。日本では「泥棒」のサインであり、手話でも「ぬ」(「ぬすっと」の「ぬ」)の指文字になっている。「10」の示し方は2種類ある。一つは両手の人差し指を立て、×状に交差させて示す方法で、漢字の「十」をかたどったらしい。もう一つは片手の手首を回転させて5本の指を伸ばした手の甲と手のひらを交互に見せる方法で、どうやら5が二つということらしい。

 こういった数のボディー・ランゲージは中国ではどこでも通じるらしいが、私がそのことを知ったのは、中国旅行中のことであった。にこにこしながらこっちを見ている小さい女の子がかわいかったので、「你幾歳(ニーチースイ=いくつ?)」とたずねたのがきっかけであった。その子は例の「9」のサインを示した。私は、自分が泥棒と思われたのかと思ってびっくりした。そこにちょうど通訳が通りかかり、「9」のサインをしている女の子とあっけにとられている私を見比べてげらげら笑い、6から10までのサインを教えてくれたのである。通訳によれば、9歳というのは数え歳だから、満年齢では7~8歳ということである。

  私の「你幾歳(ニーチースイ)」は、女の子に通じたようである。「我九歳(ウォーチュースイ)」ぐらいの中国語は私でも分かるのだが、あの女の子はなぜサインで示したのだろうか。それは、やはり相手が外国人だから、その方が通じると思ったからではないかと思う。しかし、ボディー・ランゲージも言語の一種なのだから、私には「我九歳(ウォーチュースイ)」ほども通じなかったわけである。

こんな表示を見たら、
どっちに走るだろうか?

 身振りにおけるジェスチャーとボディー・ランゲージの違いは、絵と文字の違いに対応する。非常口マークが最初に作られたとき、左右どちらかは忘れたが、一方に向いて走っているマーク一種類しかなかった。そのため、非常口の位置を別に矢印で記していた。絵の指示と矢印の指示とが矛盾してしまうのである。ところが、本当にこのマークが必要になるのは、誰もが気が動転しているときである。矢印を見るよりさきに、どうしてもマークの絵の人物が走る方向に曲がってしまう。そこで、このマークも非常口の位置に従って、左右に走る2種類が作られることになった。それにしても、なぜいざとなると、みんな矢印よりさきにマークを見るのだろう。それは、非常口マークがより具体的であり、矢印のような抽象化を経ていないからである。矢印は文字の一種意味するであり、非常口マークは絵である。人間は普段は言語に基づいて行動しているが、いざというときには、絵につられてしまうものらしい。

 抽象化の度合いの違いはあるが、非常口マークも矢印も、ともに意味のみを示す「記号」である。「記号」は文字とはいえない。文字というものは言語を示すものであるから、同時に音をも示すものであるはずだ。よく漢字は表意文字と言われるが、実は意味と音の両方を示すという意味で「表語文字」と呼ぶのが正しい。たとえば、「山」という字は、中国語(北京語)では「シャン」としか読めず、日本語では普通は「サン」か「やま」である。表意文字というものがあるとしたら、非常口マークや矢印のようなものをそう呼べばよさそうだが、音と結びついていない以上、これらは「記号」なのであって、「文字」ではない。つまり、純粋に意味のみを示すものは、あくまで「記号」であって「文字」ではないのである。結局、「表意文字」というものはありえないと私は考えている。さらに言うなら、「表音文字」も、AとかBとかいう記号単独では文字ではなく、文字の要素にすぎず、いわば漢字の部首のようなものと考えている。表音という機能を示していると考えるなら、英語でouというスペリングがhouse,soul,touch,soupでそれぞれ別々の音声を表していることの説明がつかない。「文字」というものはすべて「表語」を目的としているのであり、意味のみを示すマークや音のみを示す発音記号は、「文字」ではなく、「記号」に過ぎないと思う。

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