むかし坂本九が歌った「明日があるさ」という歌がリバイバルし、さまざまなバリエーションで歌われている。坂本九が歌っていた元歌の歌詞(作詞は東京都知事も務めた青島幸男)は好きな女の子に気持ちを打ち明けられないまま空しく時を過ごす純情な男の子の気持ちを歌ったもので、今の若者の中でその気持ちが分かるのは少数派かも知れない。今日も打ち明けられなかったというときの弁解の言葉として「明日があるさ」というリフレインが何度も繰り返される。最近のCMで流されたバリエーションの一つにこういう歌詞がある。「新しい上司はフランス人、ボディーランゲージも通じない」。そのあとこれはチャンスだから勉強しなおそうと続く。何を勉強しなおすのかというと、フランス語である。フランス語の研修を口実に若い男女が勤務時間中に堂々とデートできるチャンスだというのだから、時代も変われば変わるものである。 こういった数のボディー・ランゲージは中国ではどこでも通じるらしいが、私がそのことを知ったのは、中国旅行中のことであった。にこにこしながらこっちを見ている小さい女の子がかわいかったので、「你幾歳(ニーチースイ=いくつ?)」とたずねたのがきっかけであった。その子は例の「9」のサインを示した。私は、自分が泥棒と思われたのかと思ってびっくりした。そこにちょうど通訳が通りかかり、「9」のサインをしている女の子とあっけにとられている私を見比べてげらげら笑い、6から10までのサインを教えてくれたのである。通訳によれば、9歳というのは数え歳だから、満年齢では7~8歳ということである。
身振りにおけるジェスチャーとボディー・ランゲージの違いは、絵と文字の違いに対応する。非常口マークが最初に作られたとき、左右どちらかは忘れたが、一方に向いて走っているマーク一種類しかなかった。そのため、非常口の位置を別に矢印で記していた。絵の指示と矢印の指示とが矛盾してしまうのである。ところが、本当にこのマークが必要になるのは、誰もが気が動転しているときである。矢印を見るよりさきに、どうしてもマークの絵の人物が走る方向に曲がってしまう。そこで、このマークも非常口の位置に従って、左右に走る2種類が作られることになった。それにしても、なぜいざとなると、みんな矢印よりさきにマークを見るのだろう。それは、非常口マークがより具体的であり、矢印のような抽象化を経ていないからである。矢印は文字の一種意味するであり、非常口マークは絵である。人間は普段は言語に基づいて行動しているが、いざというときには、絵につられてしまうものらしい。 抽象化の度合いの違いはあるが、非常口マークも矢印も、ともに意味のみを示す「記号」である。「記号」は文字とはいえない。文字というものは言語を示すものであるから、同時に音をも示すものであるはずだ。よく漢字は表意文字と言われるが、実は意味と音の両方を示すという意味で「表語文字」と呼ぶのが正しい。たとえば、「山」という字は、中国語(北京語)では「シャン」としか読めず、日本語では普通は「サン」か「やま」である。表意文字というものがあるとしたら、非常口マークや矢印のようなものをそう呼べばよさそうだが、音と結びついていない以上、これらは「記号」なのであって、「文字」ではない。つまり、純粋に意味のみを示すものは、あくまで「記号」であって「文字」ではないのである。結局、「表意文字」というものはありえないと私は考えている。さらに言うなら、「表音文字」も、AとかBとかいう記号単独では文字ではなく、文字の要素にすぎず、いわば漢字の部首のようなものと考えている。表音という機能を示していると考えるなら、英語でouというスペリングがhouse,soul,touch,soupでそれぞれ別々の音声を表していることの説明がつかない。「文字」というものはすべて「表語」を目的としているのであり、意味のみを示すマークや音のみを示す発音記号は、「文字」ではなく、「記号」に過ぎないと思う。 |