日本語は世界一むずかしい言葉だという言い方をよく聞く。私は、こういう言い方を好まない。これは、何事も日本のものは特殊なのだ、日本だけのものなのだと思いたがる日本人の一般的な性向の一部であるように思われるからだ。日本に来た外国人(とくに欧米人)は、日本人から何度も同じような質問をされてうんざりすることが多いという。いわく、刺身は食べられますか、納豆はいくら何でも無理でしょう、という具合である。こんなとき、鯛は養殖ものと天然ものは全然違うとか、納豆はわらに包んだ大粒のものがうまいとか答えられたら、日本人は不機嫌になる。自分自身がどれほどグルメであるかも省みたりはしない。こんなのは食に対する熱意の個人差だと思えばいい。

 結論から言えば、文字表記をのぞけば、日本語は決してむずかしくはない。音声的には世界でももっとも簡単な言葉に属するぐらいである。テレビの「ここがヘンだよ、日本人」でさまざまな国籍の外国人がかなり込み入った話を日本語でしているのを聞けば、そのことは一目瞭然であろう。日本語が難しいように思われたのは、むかし日本に来る外国人が少なく、したがって日本語を学ぼうとする人も少なかったせいもある。言葉に限らず、日本人が日本のものを特殊と思いこむのは、自分たちの文化とは遠い関係にある欧米ばかりを比較の対象にする習慣を身につけたからである。文化を相違と考えず優劣と考える考え方に妨げられて、もっと広く世界を見渡してこなかったからだといえよう。生魚を食べる民族はいくらでもいるし、納豆だって中国南部の少数民族の間では昔から普通に食べられている。

 日本語は、たしかに系統上、孤立した言語である。今日、ウラル・アルタイ語族という言葉がわりあい広く知られているが、実はこれは学問の世界では大昔の学説である。今日、ハンガリー語やフィンランド語などはウラル語族として明瞭な親族関係が承認されているが、トルコ語、モンゴル語などはアルタイ語群とよばれ、似ているところはあるが、語族として一括するほどの親族関係は認められていない。朝鮮語はアルタイ語群ともまた違う言語とされ、日本語はさらに遠いところにある。しかし、ウラル語族の言語も含め、これらの言語の間には、無視できない類似点も多い。まず目につく類似は語順がよく似ていることであろう。

 日本人はまず英語を習うときには、訳す順番に苦労する。他のヨーロッパ語でも、もともと英語とは近縁なのだから同じである。漢文を習えば返り点というものがあり、その語順はまるで日本語と似ていない。そこで日本語はよほど特殊なものだと思いこむ。しかし、それは語順の日本語によく似た言語に日本人が関心を払わなかったからに過ぎない。さらに、ヨーロッパの言葉と親族関係が証明されている北インドの言葉や、ヨーロッパの古典語であるラテン語でも、日本語と同じように動詞が最後に来るのが普通である。

 実は、語順というものは言語の親族関係を証明する上で、さほど重要ではない。問題は、日本語では「てにをは」で示される名詞などの格(文の中での役割)がどう示されているかである。かつてウラル・アルタイ語族として一括された言語では、これが「てにをは」とよく似た後置詞で示され、ヨーロッパ諸語では語形変化で示される。ラテン語でHomo homini lupus ist.といえば、「人は人に(対して)狼である」ということである。homoは、ホモ・サピエンスとというときのホモで、「人が」という意味であり、hominiはそれが語形変化して「人に」という意味を表す。狼はlupusであるから、語順が日本語と同じであることが分かる。しかし、このような語形変化は、ヨーロッパ語では次第に衰え、格はおもに語順や前置詞で示されることになった。すると、「~が~を」という関係を示すには、動詞が中に割って入るという形が自然となる。このような変化が最も進んでいるのが実は英語である。ロシア語などでは、I,my,meのような語形変化が名詞全般にわたって残っている。

 かつてウラル・アルタイ語族として一括された言語の語順が似ているのは、後置詞で格を示すことの結果にほかならない。ヨーロッパ語で語形変化が衰退したのは不規則性が多いためであるが、後置詞をつけるということには不規則性がないため、遠い言語同士の類似が保たれたのである。なお、中国語はもともと一語一語が独立した言語であるため、「~が~を」という関係は昔から「我愛汝」というようにI love youと同じように語順によって示されていた。これをみて「中国語は英語に似ている」という人が多いのだが、実は英語が中国語に似ているのである。もっと正確にいうのなら英語がだんだん中国語に似てきたのである。今日の英語ではloveは「愛」という名詞でも「愛する」という動詞でもあるが、これは、中国語の「愛」が名詞にも動詞にもなるのと同じでことである。名詞に格変化があったころの英語は、もっと語順が自由だったと思う。

 日本人が自分たちを特殊視するのは、明治以来ヨーロッパにしか関心を示さなかったためだが、さらに言うと、実はヨーロッパのこともよく知らなかったからである。ヨーロッパはここ数百年の間に急速な成熟をとげた。その後のヨーロッパに学ぶべきことが多いのは今日でも確かなことである。しかし、それを昔からのヨーロッパと思い誤ってはいけないのである。このことは、何も言語だけについて言えることではない。

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