「行住坐臥」とは何か?

 「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」という言葉がある。「東西南北」のように四文字がそれぞれ独立している型の四字熟語であり、順に「あるく」「たつ」「すわる」「よこたわる」という意味と考えてよい。「武士は行住坐臥常に武士であらねばならない」というように、「どんなときにでも」という意味で使われる。この言葉が広まったのは、どうやら禅宗の影響らしい。禅宗では「只管打坐(しかんたざ)」という言葉がある「只管」には、「ひたすら」という熟字訓もある。「打坐」とは「座禅を組む」ということである。人間は生きている限り行住坐臥の中から選択ができる。その中でひたすら「坐」を選ぶということが座禅であるらしい。歩きっぱなし、立ちっぱなしではあまりにしんどいし、横になりっぱなしでは楽すぎる。そこで「座りっぱなし」という姿勢が修行の手段として選ばれたようである。私自身、座禅を2時間続けたことがあるが、座りっぱなしというのも楽ではない。どうしても身体がゆらゆら揺れるし、うとうとしてしまうこともある。何か気になることがあれば思わずその方角を見たくなる。そういうときには「警策」がずしんと肩に打ち下ろされる。座禅の狙いは、不動心を養うことにある。不動心というのは、さまざまな選択肢がある中で、一つの姿勢を選び続ける意志の力のことなのであろう。

 「行」を「あるく」としたが、別に走っていても構わない。要は移動するということであろう。しかし、「あるく」のと「はしる」のは違う。漢字の書体に、「「行書」というものがある。私は「楷書」は立っており、「行書」は歩いており、「草書」は疾走しているのかと思っていたが、そういう解釈は適当でないらしい。私たちの世代は、楷書の教育しか受けていない。楷書は正確に覚えようとすると意外とたいへんで、小学校では「康」の字の最後の一画を「水」の最後の一画のように書かないと×にする先生もいるらしい。大学に入ってまもなくのころ、祖母から手紙をもらった。行書で書いてあった。楷書を知っていたら行書は大体読めるが、ところどころ読めないところがあった。祖母は草書も書けたが、草書で書かれたら、博物館で古文書を見たときのように呆然とするほかは無かった。「あるく」という言葉は、古くは「ありく」といった。今も「飛びあるく」という言葉があるように、「ありく」は、「あちこち動き回る」という意味である。「あゆむ」という言葉は、今日では「あるく」の同義語と思われているが、古くはこちらが今日の「あるく」の意味であった。そのため、古文にはしばしば「あゆみありく」という言葉が出てくるが、これは「歩き回る」という意味である。。「はしる」のも「あるく」の一種で、ちょっとスピードが速いだけの違いであろう。今日の中国語で「走」という字は「あるく」を意味し、「はしる」は、足へんに「包」という字(ウェブでは出せない)で表される。

 「住」という字は、「定住」という言葉があるように、一ヶ所にとどまることを意味する。農耕民は定住しているが、遊牧民は定住しなかった。この「遊」という字が曲者である。「遊ぶ」という意味でとらえられがちで、遊牧民はさぞ気楽な生活をしているのだと思われがちだが、実際の遊牧というのは、家畜の世話に明け暮れ、家畜にこき使われるような、たいへんな生活様式らしい。「遊牧」という場合の「遊」は、まさに前段で述べた「ありく」、すなわち「あちこち動き回る」という意味である。政治家はときに「外遊」するが、これも仕事のうちである。野球の遊撃手(ショート)は、遊んでいるどころか、内野では最も忙しいポジションである。「惑星」を「遊星」ということもあったが、これは人間が空を見上げたとき、毎夜同じところにはいないことからついた名前である。恒星のまわりを回っているなどということは、天文学が発達して初めてわかったことである。昔の軍隊では同じ物を陸軍では「高射砲」、海軍では「高角砲」と呼んでいた。planetの訳語が「惑星」に落ち着いたのは、もともと東大の学者が使っていた言葉だったからであり、「遊星」は京大の学者が使っていた言葉だそうである。「住」は一ヶ所に「いる」ということだが、「行」や「坐臥」との関係では「立つ」という意味となる。

 今日では単に存在を示す「いる」という言葉は、古語では「ゐる」といった。現代語の「いる」は、ほぼ人間か動物に限って使われるという点以外は「ある」と同じ意味であるが、昔の「ゐる」は「すわる(坐)」という意味であった。その名残は「立ち居振舞い」という言葉に見られる。望(もち=満月)の翌晩は「十六夜」であるが、そのあとは、順に「たちまち」「ゐまち」「ねまち」と呼ばれていた。月の出がだんだん遅くなるので、月を見たければ次第により楽な姿勢をしたほうがいいということから、このような呼び方ができた。神社の前にある「鳥居」は、鳥の止まり木のことである。鳥がとまっていることを、古代の人は人間がすわっているのと同様、「ゐる」としてとらえたようである。そういえば、止まり木にとまって飲むところは「居」酒屋という。

 「臥」という字は「よこになる」という意味である。「ねる」としなかったのは、「ねる」という言葉が「寝る」と「眠る」の二つの意味で使われるからである。体調が悪い人に「少しねていなさい」というときの「ねる」は「よこになる」ということであるが、ホテルのツインルームで相部屋の人に「ねてる?」と聞くときには眠るといういみである。本当に眠っていたら、答えられるわけがない。「臥」という字は、今の日本では「臥薪嘗胆」という四字熟語ぐらいでしか使われない。「横臥」という言葉もあるが、話し言葉ではまず用いられず、完全な文章語である。中国に行ったとき、「寝台車」のことを「臥車」ということを知った。これに対し、普通の車両は「坐車」という。「坐車」には「硬坐車」と「軟坐車」があり、「軟坐車」とは、日本でいう「グリーン・カー」のことである。

 こう考えてくると、「行住坐臥」が「どんなことをしているときも」という意味で使われるのは、面白いと思う。人間、いずれは「臥」しかできなくなるのだが、それまではさまざまな選択肢の中で人生を送っている。何をしていても美しい人を形容する表現に「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのがある。これのパロディで「立てばパチンコ、坐ればマージャン、歩く姿は千鳥足」というのもあった。その当時のパチンコは、立ったまま玉を一つ一つ手で入れて遊ぶものであった。「行住坐臥」さまざまなことができるからこそ、生きていることは面白いのだが、そのありがたさは、ときに「只管打坐」してみることでしか分からないのかも知れない。


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