「ぼくはうなぎだ」という言い方
 

 「君の名は」というラジオ・ドラマがあったことをおぼろげに覚えている。調べてみると、1952(昭和27)年から2年間にわたる放送だったというから、おおむね私が6歳から8歳にかけてということになる。空襲下で出会った男女が互いの名を問ういとまもないままに別れ、その後すれちがいを繰り返すというドラマで、戦争未亡人や孤児がよく登場したという。女性の聴取率はとくに高く、放送が始まると銭湯の女湯がからになったというほどであった。映画になってからは、ヒロインの真知子がかぶっていたスカーフが真知子巻の名で大流行した。テレビも内風呂も録音装置も一般化していない時代のことであった。

 ところで、「君の名は」だけで、なぜ題名になるのだろうか? 英語でも単に "Your name?" と尋ねることはあるだろう。しかし、これをドラマや映画の題名にしようとしたら、 "What's your name?" とでもしなければならない。「は」に当る言葉のない英語では、他の語との間で文型を作らないと、意味がはっきりしないからである。これに対して、日本語では、「は」がついていれば相手に答えを求めていることが、あとを続けなくても明白である。

 「おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」という場合、「は」を「が」に変えても、さほどの意味の違いはないように感じられる。こういったことから、「は」は、「が」とともに、主格(この場合は動作主であること)を示す語であるという誤解が蔓延している。しかし、「が」と「は」とは、置き換えてはおかしくなる場合のほうがずっと多い。この文に先立つ文を「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんはいました」と言っては、明らかに変であろう。「君の名は」にしても、「君の名が」では、題名にはまるでならない。夫婦が息子のことについて話をしている。夫が「太郎は」といったのなら、妻は「遊びに行ったわよ」とでも言うだろう。しかし、「太郎が」といいかけたなら、「太郎がどうしたの?」と妻は心配そうに聞くであろう。

 実は「は」は主格を示すとは限らない。そのことは、「めしは食ったか?」「パリは行ったか?」という文を考えてみれば分かる。この場合、「は」と置き換え可能なのはそれぞれ「を」「に」であって「が」ではない。

 主格を示す言葉ではない「は」を西洋文法風に、「主語」を示す言葉だととらえるのは、明らかな誤りである。「は」が示すのは、「題目(主題)」である。何をとくに問題にしているのかということであり、題目として取り上げるには、その物事について、話し手と聞き手との間で共通の認識があることが必要である。いきなり「おじいさんとおばあさんは」というのが変なのも、「誰は」とか「どこは」という表現がないのもこのためである。日本語はよく主語を省略するというのは、実際はこの題目を省略していることをさすことが多い。「どちらさまですか?」「山田です。」だけで会話が成り立つのは、二人で話しているのだから、それぞれ誰を問題にしているかが明白だからである。「吾輩は猫である」のあと、「名前はまだ無い。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ」と、いちいち「吾輩は」と繰り返していないのも、つぎに「は」で別のものが新たに題目となるまで、吾輩についての話だということが自明だからである。

 「さよならを言はうとした」のはどっち?

 川端康成の『伊豆の踊子』の中に次のような文章がある。

 はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきつと閉ぢたまま一方を見つめてゐた。私
縄梯子に捉まらうとして振り返ったとき、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。

 「私が縄梯子に」と言う以上、「さよならを言はうとした」のは私ではなく踊子である。新たに「は」が出てくるまで、主題は踊子のままなのである。私が「さよならを言はうとした」のなら、「私は縄梯子に」と言わなければならない。


 「馬が走る」と「馬は走る」は一見同じ意味のように見える。しかし、「馬が走る」が単に事実を述べているだけなのに対し、「馬は走る」の場合は、馬という題目について、走るものだと述べている感じがある。この違いは、形容詞文だといっそうはっきりする。「歯が痛い」と言えば、単に事実を述べているだけであり、「北海道は寒い」と言えば、そういう所だということを述べているのである。前者を「物語り文」、後者を「品定め文」として区別することもある。「は」は、特定の対象を他と区別して題目として取り上げる。「犬は喜び庭かけまわる。猫はこたつで丸くなる」のように対比して用いると安定した表現になることがあるのもそのためである。

 よく話題となる表現に「ぼくはうなぎだ」というのがある。もちろんうなぎがしゃべるはずもなく、"I'm an eel." などと英訳したら相手はびっくりする。しかし、いろいろな料理を出す食堂に集団で行ったときに注文を聞かれて、こう言うときには、日本語では少しもおかしな表現ではない。もっとも、一人で行ったときに「ぼくはうなぎだ」と言ったなら店員はまごつくであろう。こういう場合には、単に「うなぎだ」と言えばよい。「ぼくはうなぎだ」という表現は、「他の人は何をとるか知らないが僕に関しては」という意味で、これに「ぼくは」とつけたと考えれば、少しもおかしな表現ではない。

 何を食べるかと聞かれて「うなぎ」と答えても、料理が出てきたとき誰がうなぎなのかと聞かれて「ぼく」と答えても、意味は十分に通じる。英語でもこういう場合、それぞれ eel とか me といっただけでも意味は通じるだろう。しかし、英語の場合はある文型に組みたてなければ文として安定せず、いわばカタコトである。しかし、「ぼくはうなぎだ」は、日本語では決してカタコトではない。英語の場合は、「は」とか「だ」とかに当る言葉がないため、文型に組みたてなければならないのだという考え方もできる。

 「は」が要求する答えは、さまざまである。枕草子の書き出しの「春はあけぼの」は、よくあとに続く「がいい」を省略しているのだと言うが、実はこれもうなぎ文なのであり、「春(について)は、(何がいいかというと)あけぼのだ」ということであろう。「花は桜木、人は武士」と同じことである。「ぼくはうなぎだ」という文は、「ぼく(について)は、(何を食べるかというと)うなぎだ」という意味であり、「吾輩は猫である」は、「吾輩(について)は(何物であるかというと)猫である」という意味である。これが同じ「~は~だ」という形で表現されるのは、それぞれの主題についてどのような答が必要かという点で話し手と聞き手、書き手と読み手の間に一致があるからである。「吾輩は猫である」のように一見、英語に逐語訳できそうなものだけが、「は」の機能ではない。


表紙へ


inserted by FC2 system