「白馬は馬に非ず」とは?

 いつの時代にも、人を言い負かすことが好きな人というものはいるものらしい。ネット上にある無数の掲示板を見てもあまり変らないと思うのだが、チベットの寺では昔から老若入り乱れて仏教の教理問答が行われていた。その場面をテレビで見たことがあるが、まるで口喧嘩みたいであった。チベットの仏教は、むかし特殊視され、「ラマ教」と呼ばれていたが、これはチベットを「秘境」とみたことから起こった誤りであり、「ラマ教」は日本仏教よりはるかに仏教の原型に近い。テレビでは、老僧を言い負かした若い僧があたりはばからず大喜びしていた。チベット語をマスターしたとしても、これについていくには、語学に加えて、さらに大変な修行が必要になるであろう。

 古代中国には名家とよばれる人たちがいた。三尺の鞭を毎日半分ずつに切っていけば、永遠になくなることはないというような屁理屈をこねた人たちである。「アキレスと亀」の話など、古代ギリシャにも似たような人たちがいたらしい。しかし、名家の打ち出した最も有名な命題として、「白馬は馬に非ず」というのがある。これを最初に知ったのは、高校の授業のときであった。たしか、白というのは色についての概念で馬というのは動物についての概念だから白馬は馬ではないというような説明であった。分かったような分からないような気がしたものである。

 私たちは「白馬」というと、「白い馬」のことだと思っている。しかし、中国人(漢民族)にとってはどうなのだろうか? 「白」という中国語は、日本語の「しろ」と「しろさ」と「しろい」の三つの意味を兼ねているように思われる。もちろん、告白や自白の「白」のように「言う」という全く別の意味で使われているときは除外する。「しろ」と「しろさ」は違う。「今年の水着は白が流行だ」「彼女の色の白さはよく目立つ」というときの「しろ」と「しろさ」を入れ替えることはできない。だが、「白馬」の「白」は「しろさ」ではないだろう。では、「しろ」なのか「しろい」なのかということになる。概念を裸で提供する中国語ではその区別は聞き手に委ねられている。

 おそらく中国でも「白馬」は「白い馬」として認識されているのだろう。しかし、名家の詭弁は、これが「白と馬」ともとれるということを衝いたところに巧妙さがある。中国語で二つの語(=字)を並べたとき、それはandでもorでもありうる。「鳥獣」といえば、「鳥と獣」ということでorの意味であろう。だれそれは鳥獣を好むといえば、鳥も獣も好きなのである。しかし、「倭人」はどうだろう? 「倭and人」ということで、(昔の)日本人のことである。ここでのandとorとの区別は、ネットの検索での用語に準じて考えていただきたい。

 「白」「馬」をともに名詞と考えよう。それを結ぶものはandであるかもしれないしorであるかもしれない。しかし、いずれにせよ、白馬が馬でないことは確かである。ここで数学の集合の図を考えていただきたい。右の図のように、二つの円が部分的に重なっている図である。andと解釈した場合は「白馬」は中央のレンズ形の部分となる。orと解釈すると二つの円をあわせた雪だるまの全体となる。どちらにせよ、一つの円で示される「馬」と同じではない。しかし、普通の中国人はこうは考えないだろう。それは「白」が形容詞で「馬」が動詞だと思うからではない。それぞれの語の意味内容を重ねれば常識的に「白い馬」のことだと考えるからではないだろうか? 最近私はこのように考えて、高校生のとき以来の疑問を解決したように思うのだが、みなさんはどう思われるだろうか?


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