「韻」とは何か?

 「余韻にひたる」という言葉がある。阪神ファンは、試合に勝ったときには、終了後も球場に残り、「六甲おろし」を歌って勝利の余韻にひたる。「余韻」とは「余った韻」ということであり、「韻」とは、「響き」ということである。お寺の鐘を「ゴーン」と撞いたあとに残る「ホヨホヨホヨ~ン」という響きが「余韻」ということになる。

 中国では、「韻」は、「声」と対になる概念である。漢字には一字一字読み方があるが、その読み方のうち、頭の部分の子音を「声」といい、それ以外の部分を声調(語を識別する機能を担う声の上げ下げ)をも含めて「韻」という。熟語も耳あたりの良さを求めて、同じ「声」、同じ「韻」を重ねて作られることがあり、これを「双声」「畳韻」という。語頭の子音が共通である「流離」「古今」「消息」「匍匐」「邂逅」「顛(→転)倒」などは「双声」の、「逍遥」「徘徊」「芍薬」「辟易」「闊達」「丁寧」「支離滅裂」などは「畳韻」の例であり、いずれも日本語でもおなじみである。

 中国の詩(漢詩)には、各句(行)の最後を同じ韻にそろえる決まりがあり、これを「韻を踏む」とか、「押韻する」という。「千山鳥飛絶 万径人蹤滅 孤舟蓑笠翁 独釣寒江雪」という柳宗元の詩「江雪」では、「絶」「滅」「雪」の3字が「ゼツ、メツ、セツ」という具合に韻を踏んでいる。この詩は、日本では「千山鳥飛ぶこと絶え、万径人蹤滅す。孤舟蓑笠の翁、独り寒江の雪に釣る」という具合に訓読されるが、中国では当然棒読みするので、「絶」「滅」「雪」の3字の響きが同じであることが詩を引き締めるのである。4句(=行)からなり、一句が5文字からなる「五言(ごごん)絶句」の場合、必ず押韻するのは第2句と第4句である。第3句は起承転結の「転」の部分にあたり、内容的にもがらっと変わるのでむしろ押韻すべきではない。一句が7文字の「七言(しちごん)」の場合は、さらに第1句も押韻する。しかし、これは原則であり、五言でもこの「江雪」のように第1句も押韻する詩がある一方で、七言でも第1句が押韻しない詩もある。ただ、第2句と第4句が押韻すること、第3句が押韻しないことには例外がない。

Gin a body meet a body comin' thro' the rye;
G
in a body kiss a body need a body cry?
Ilka lassie has her laddie, ne'er a ane ha'e I,
Yet
a' the lads they smile at me,when comin' thro' the rye.

 押韻はヨーロッパの詩でも、ごく一般的に行われている。上は「誰かさんと誰かさんが麦畑……」というスコットランド民謡(「夕空晴れて秋風吹き」ではじまる「故郷の空」の元歌)だが、最後の赤い部分がすべて「アイ」という響きで押韻していることがわかる。古典的な詩でもビートルズの歌でもこのような民謡でも韻を踏んでいるのが普通であり、他のヨーロッパの国々の詩でも同じである。なお、英語は、強弱アクセントなので、右の歌の場合、強く発音するところを赤で示している。強い音節で始まり、最後の赤い部分も含め、強く読む音節と弱く読む音節が一つおきに配置されている。こういう詩のリズムを強弱格といい、このような軽快な歌に用いられる。弱い音節で始まる弱強格は荘重な歌に用いられ、他に強弱弱格、弱弱強格という3拍子のリズムもある。強弱アクセントで強く読まれるところは母音が長く伸ばされることになる。英米人が「広島」「長崎」というと「ヒロシーマ」「ナガサーキ」のように聞こえるのはそのためである。

 詩を普通の文章(散文)と対比して「韻文」と呼ぶことがある。これはヨーロッパの詩が韻を踏むのが常識だったためであり、同じく韻を踏むのが常識である中国の「韻」という字を用いて「韻文」と表現するようになった。しかし、日本語の詩では、「韻」はめったに用いられない。その代わりに、各音節(厳密にいえば拍)をできるだけ同じ長さで発音しようとする言語の特徴から、七五調などのリズムは発達している。そのため、日本語の場合、詩は「韻文」とよぶより「律文」とよぶほうがしっくりくる。百人一首の「
きのおとはえてひさしくりぬれどこそがれてほきこえけれ」のような頭韻の例はときに見られるが、中国やヨーロッパで一般的な脚韻はきわめて珍しい。これは、日本語の場合、音韻構造が単純で「あいうえお」のどれかで終わるのが当たり前のため、脚韻にしてもあまり強い印象を与えないためと思われる。もし脚韻の効果をあげようとしたら、西川峰子のつぎの歌のように、音節あるいは語全体で韻を踏ませなければならない。「抱いてほしさ ふるえる肩 指も触れない好きな そうよあなたが初めての 早く大人にしてほし してほし この指 この頬 この心 あなた一人 あなた一人 捧げたい」。

 詩は言葉を使った芸術である。言葉を絵の具とすることもあれば、楽器とすることもある。「菜の花や月は東に日は西に」という蕪村の句を読むとき、人はまず、目の前にひろがる鮮やかに黄色い一面の菜の花畑を思い浮かべる。沈む夕日は赤く、のぼったばかりの月はまだ白い。ここでは言葉は絵の具として用いられており、この句をもとに「おぼろ月夜」という文部省唱歌が作られた。しかし、リズムや韻を用いるとき、詩は楽器となる。谷川俊太郎の「かっぱらっぱかっぱらった」のような言葉遊びの詩を考えると分かりやすい。詩を教えるのはなかなか難しい。生徒からはよく「この詩は何がいいたいのか」と聞かれる。しかし、伝達だけを目的にするのなら、詩などという形をとらず、散文にすればいいのである。詩は伝達するものではなく、(追)体験させるものである。読者は、詩に用いられた語を手がかりに一つの世界を思い浮かべ、そこにひたる。思い浮かべることによって自ら体験したという気持ちが生じる。そのような世界に読者を引き込む言葉は、それなりにふさわしい魅力を備えていなければならない。だから韻やリズムといった工夫が必要となるのである。


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