熟字訓について


 「百日紅」と書いて「さるすべり」と読む。漢字と読み方がまるで対応していない。このような、二文字以上になって読み方が確定する訓読みを「熟字訓」という。熟字訓の例は、「田舎」「土産」「海老」など日本語にはたくさんある。

 「さるすべり」は、高さ5メートルほどの木である。夏を中心に花を咲かせる。花は白いものもあるが、赤いのが一般的で、原産地の中国では、次から次へと花を咲かせ、百日にもわたってどこかに花を咲かせているので「百日紅」と呼んだ。しかし、日本ではその幹がつるつるしているので、木登りの上手な猿でさえ登れないということで「さるすべり」と呼んだ。猿が聞いたらなめるなよと思うであろう。「百日紅」は中国語であり、「さるすべり」は日本語であって、それぞれ目のつけどころの違う名づけ方をしている。しかし、考えてみれば日本における漢字の使われ方はすべてこれと同じである。「花」はもともと中国語を示す文字であり、「はな」は日本語である。「百日紅」にせよ「花」にせよ、文字表記は中国語であり、読み方は日本語なのだから、文字が一文字か三文字かということに大した違いはない。

 日本で訓読みが成立したのは、漢字が意味を表す文字だからである。中国での読み方を元にした音読みとは別に、新たに日本語(和語)で読むことによって訓読みは成立した。一つの英単語を日本語でさまざまに訳しわけるように、漢字の意味を汲んで日本語で読もうとすれば、さまざまな読み方が生じてくる。こうして、「生」に対する「なま、き、いきる、おう、はえる、うむ」などのように、一つの漢字に対して、いくつもの訓読みが生まれることになったのである。

 近代言語学の祖とされるソシュールは、文字の唯一の役割は音を表すことにあるとした。そして、それ以外の余計なものをも表す漢字を、この機能に徹していない発達途上の文字とみた。しかし、これはアルファベットを用いるヨーロッパ人の偏見に過ぎない。文字というものは、漢字に限らず、すべて意味を伝えることを目的としている。表音文字と表意文字の違いは、それを表音という手段を介して行うかどうかという違いである。

 aとかbは一つ一つが文字である。しかし、文字の機能を語の表記だと考えるなら、aやbは単独では文字としての役割を果たしてはおらず、連ねられて初めて文字という機能を果たしている。英語を例に取るならば、文章を読む人は、単語を構成するアルファベットを一字一字たどって読んでいるのではなく、分かち書きされた単語全体を一目読みして読んでいる。

 戦後のアメリカ占領期の日本の学校ではたとえば「いわし」を一字一字読むのではなく、全体として「いわし」と読めというような指導が行われていた。これはアメリカで行われている指導法をそのまま日本に適用しようとしたものである。アルファベットを用いる言語ではthやeaのように二字以上で一つの音(音素)を示すことが多い。加えて英語の場合は綴りと読みの関係が複雑である。そのため、一目読みが行われるのだが、それを漢字とかなを併用する日本語に適用するのは全く無意味であるため、すぐに廃止された。

 また、英語のスペリングの中には、"straight"という語の中の"gh"のように、音を表す機能がまったくないものもある。しかし、この"gh"という部分は"straight"という語を"strait(海峡)"という他の語と区別するという意味では、まったく無意味とは言えない。また、sonとsunは古くから同音語であった。本来ならともにsunと書くべきなのだが、この書き分けによって語を区別している。

 次に朝鮮語の例を挙げよう。月のことを달(tal)という。これに이(i)、을(eul)、은(eun)といった助詞(順に日本語の「が」「を」「は」に当たる)がつくと、ㅇは母音がないという印なのでㄹの音が次の音節に移動する。したがって、「月が」「月を」「月は」はハングルが作られた当初には、それぞれ다리、다를、다른のように書かれていた。発音通りならこのほうが適当である。しかし、今では、달이、다를のように、달の部分が一定になるように書かれる。これは달という部分が単に音を表すのでなく、「月」という語を示すものとして意識されるようになったからである。

 文字の最終的な役割は意味を示すことなのであり、そのために音の表記を介するかどうかは、言語の性質によって異なってくる。語が一音節である上、活用とか曲用(名詞の語形変化)がない中国語の場合、表意のために表音を介する必要がないので、ストレートに意味を示す文字としての漢字が生まれたのは自然なことだったのである。

 人間の発する音声には、変化が激しいという弱点がある。また、それぞれの言語で微妙な違いを無視する慣習が出来上がると人はそれに気がつかない。ところが字の形の変化は目に見えるだけに人はすぐにそれに気がつく。よく、音声の変化についていけないのが文字の弱点のように言われるが、私はむしろ、変化がおこりにくいのが、文字の長所だと考えている。概念を表す手段は多様であってかまわないし、手話などという方法もある。音声だけが基本だと考えたソシュールの発想はひどく偏ったもののように思う。

 文字の役割は音を示すことだけという考え方からは、漢字はひどく非能率な文字に見られる。しかし、漢字を覚えるということは、同時に語を覚えることでもある。ほとんどの日本人は「水」という字が「みず」とも「すい」とも読めることを知っている。言いかえれば「みず」と読む「水」と「すい」と読む「水」の両方を知っており、両者を固く結びつけている。そのため「水(すい)」という字を含む難しい漢語の意味をごく普通の人がだいたい理解することができる。これに対し、ギリシャ語起源のhydro-という水を意味する語根を含む語の意味は、英語国民の中では高等教育を受けた人でなければ、皆目見当もつかないという。また、"danger"と「危険」を比べた場合、危険を認識するのにかかる時間は漢字のほうが十倍以上も速いという。このような漢字の利点を、欧米中心の発想を脱して、今こそ見直すべきではないだろうか?


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