万葉の歌の改作について

 小倉百人一首には、奈良時代の歌人の歌も選ばれている。そのうち万葉集に載っていることが確認できるのは二つだけだが、いずれも改作されている。改作は、百人一首に選ばれる以前に同じ藤原定家の選んだ新古今和歌集に載せるときにすでに行われている。持統天皇の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」の元歌は「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」だし、山部赤人の「田子の浦にうちいでてみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」は、「田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」である。なぜ、このような改作をする必要があったのだろうか?

 二人の元歌に共通することは、実際に目にした光景への感動を率直に歌っているということである。持統天皇の元歌にある「ほしたり」は「ほしてあり」が短縮したものであり、「ほしている」ということである。衣をほしているのを実際に見て、まもなく夏がやってくるようだと思っている。「きたる」は「き・たる」ではなく、「来至る」の略であり、まだ夏は来ていない。また、今、「らしい」というと、やや頼りない感じがするが、古語の「らし」はかなりの根拠(ここでは真っ白な衣を干しているということ)をもって推定するときに用いられる。赤人の歌の「真白にぞ」というのも現実の富士の高嶺の白さを見て出た言葉であるし、その白さを見て「ああ雪が降っているのだなあ」と感じている。「田子の浦ゆ」の「ゆ」は通過点を示す奈良時代特有の助詞である。

 平安以降の歌では、このような実景に基づく率直な感動は好まれなかった。持統天皇の歌の改作の場合、ポイントは「ほすてふ」にある。これは「ほすといふ」の短縮した形であるから、これにより、実景を詠んだ歌が遠くにある想像上の景色に一変する。そのために、「夏来にけらし」も、「夏がもう来たようだ」という推定の意味になる。それに「来たるらし」という表現は響きが強く、「たをやめぶり」(万葉集の「ますらをぶり」に対して女性的であること)を旨とする古今以降の歌には似つかわしくない。赤人の歌の改作のポイントは「真白にぞ」を「白妙の」に変えたところにある。「白妙の」は、衣や富士など白いものにかかる枕詞であるので、富士も実景ではなく、観念の中にある富士となる。また、古今以降の歌は「ふりける」のような強い言い切りを嫌う。「つつ」という言葉は、今と同じく「ながら」という意味で使われることもあるが、このように歌の最後に用いられた場合には、反復・継続の意味を含んで余韻を残すことになる。平安以降の歌人は、洗練された美を共有する特権集団であった。万葉集に多い東歌や防人歌といった庶民の歌は古今以降姿を消し、勅撰集では身分のない者の歌は「よみ人しらず」としてしか収録されなかった。「歌枕」という言葉は歌の素材として認知された地名をさす。万葉の二首に実景として描かれた天の香具山や富士山は、この改作によって歌枕と化しているのである。このような観念性は、平安末期から鎌倉にかけての新古今の時代にはいっそう強まっていった。

 万葉集にある「ももしきの大宮人はいとまあれや梅をかざしてここに集へる」も新古今集に採録される際には、下の句が「桜かざして今日もくらしつ」と改作された。「いとまあれや」は「いとまあればにやあらむ」の短縮されたもので、「いとまがあるからであろうか」ということであるが、同じ「いとま」でも万葉の場合は「ゆとり」、新古今の場合は「ひま」と訳すと感じが出る。万葉の歌には人と会う喜びがあるが、新古今の歌には閉鎖的な社会に住む貴族たちの倦怠があらわれていると言っては言い過ぎだろうか? そのような気分を示す花は梅よりやはり桜がふさわしいということになる。ほとんどが平安以降の人である百人一首の作者を見て驚くことは、作者たちの血縁が互いに近いということである。平安時代に掛け値なく「高貴」といえるのは三位以上であるが、その数はわずかに二十人程度、「通貴」として「貴」に準ずるとされる五位以上でも百数十人程度だったのだから当然であろう。なお、定家の一族である御子左家(みこひだりけ)は藤原一門の中ではさほど高い血筋ではないが、歌の名門とされており、定家の父俊成も勅撰集(『千載和歌集』)の撰者となっている。

 万葉から古今の間には、歌の韻律(リズム)の面でも大きな変化があった。黙読になれた現代人が忘れがちなことだが、「歌」は本来「詠む」ものである。「詠む」というのは、声を長く伸ばして歌うことである。そして、その伸ばし方は、奈良時代のほうが平安時代よりさらに長かったようである。百人一首が上の句を聞いて下の句を書いた札をとる遊びであるように、短歌は五七五と七七に区切るのが今日では常識となっている。しかし、声を長く伸ばして歌う奈良時代には、五七五では長すぎて間延びがするので、五七/五七/七と区切ったものと考えられている。万葉集には短歌のほかに長歌(ちょうか)も多い。「あめつちの ひらけしときゆ かむさびて たかくたふとき するがなる ふじのたかねを あまのはら ふりさけみれば わたるひの かげもかくろひ てるつきの ひかりもみえず しらくもも いいきはばかり ときじくそ ゆきはふりける かたりつぎ いひつぎゆかむ ふじのたかねは」というように、五七を無制限に繰り返し、最後に七でしめくくるのが長歌であった。短歌はこの繰り返しを最低限の2回にとどめて七をつけたものだったのである。なお、長歌のあとには、その内容を要約した短歌を「反歌」として添えることになっていた。今あげた「あめつちの」の長歌は山部赤人の作であり、その反歌が実は百人一首に収められた歌の元歌なのである。

 万葉の歌は完全な五七調であった。歌は二音ずつのリズムをつけて詠まれるが、五ではこの繰り返しが二回半しかなく、調子にのりきらないまま、ながい七音に移るので、五七調はどうしても重々しくなる。これに対し、古今以降の詠み方では、最初の五を詠んだあとに間を置いて、七五で調子にのせた勢いで七七に移る。五七五と七七という区切り方は、最初の五を前置きとした七五調といってよい。七五調はたいへん軽快である。このようなリズムの違いが歌の内容をも制約する。重々しい内容の歌は避けられ、さらりと流すのが好まれるようになる。万葉の二首が改作されたのも、このような事情によるものであった。

 なお、和歌では女性の活躍が目立つ。当時の女性の社会的地位はとても低かったのに、これはどうしてであろうか? その謎をとく鍵として、平安時代の才人藤原公任(ふじわらのきんとう)の逸話がある。当時、貴族社会では、桂川の上流である大堰(おおい)川に漢詩、和歌、管絃(音楽)の3種類の芸能を競う船を浮かべる遊びがあった。公任はどの船にのっても他を圧倒する「三船の才」の持ち主だったが、ある日和歌の船に乗り、はたして好評を博した。そのとき公任は「和歌でこんなにほめられるなら、漢詩の船に乗ればよかった」と悔やんだというのである。和歌の地位は漢詩よりも低かった。社会的地位の低い女性の大半は和歌に専念することになる。しかし、外国の真似である漢詩には本国以上のものはあらわれず、自分の気持ちを自分の言葉で詳細に表現できる和歌が後世に残ったのである。和歌の分野でこそ女性は活躍したが、当時それ以上に高く評価されていた漢詩に女性の出番はほとんどなかったのであり、平安文学で女性が活躍したというのは、後世から見て言えることなのである。なお、三船の遊びは、今も、「三船祭」という観光行事として復元されている。          


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