「漢文」は中国語か? 

 五木ひろしに、「よこはま・たそがれ」というヒット曲があった。「よこはま、たそがれ、ホテルの小部屋、口づけ、残り香、タバコの煙、ブルース、口笛、女の涙」と単語がずらずら並ぶあれである。中国語はいわば、この歌のような言語である。「春眠不覚暁、処処聞啼鳥、夜来風雨声、花落知多少」は、中国人の意識に即して訳せば、「はる、ねむる、しない、かんじる、あさ。ところ、ところ、きく、なく、とり。よる、くる、かぜ、あめ、こえ。はな、おちる、しる、おおい、すくない」となるだろう。

 中国語の単語は一つの音節が一つの意味と結びついて成立し、それが一つの漢字で表される。外国の固有名詞も、「馬来亜凱莉(マライア・キャリー)」、「阿根廷(アルゼンチン)」という具合にすべて漢字で書かれる。単に漢字しかないからという消極的な理由からだけではない。無意味な音節がずらずら並ぶことが中国人の言語意識からして耐えがたいという面もあるのだと思う。

 中国語の単語は語形変化をしない。また、日本語の「てにをは」にあたることばもない。「大阪で」は「在大阪」、「椅子を」はときに「把椅子」と表現されるが、「在」や「把」は、それぞれ「ある」「つかむ」という、動詞としての性格を保っている。「推敲」という言葉がある。これは、中国唐代の詩人賈島が、「僧○月下門」の「○」に「推(おす)」という語を入れるか、「敲(たたく)」という語を入れるかにさんざん迷った故事に由来している。一つ一つの語が同格に並ぶ中国語では、どんな語を選ぶかが表現の巧拙を分ける。欧米の詩人なら、それ以上に、どんな文型にするかに迷うことが多い。このようなことから、欧米諸語は「文法的言語」と呼ばれ、中国語は「語彙的言語」と呼ばれる。なお、門を押すのなら錠はかかっておらず、叩くのなら錠はかかっていることになるのだから、違いは決して小さくはない。

 漢文という語は中国でも用いられ、中国語の文ということではあるが、日本の高校で教えられる「漢文」は中国語ではなく、ある定型に基づいた中国語の日本語訳である。杜甫に、結婚してすぐに徴兵された夫の身を案じる新妻の心情を歌った「新婚別」という詩がある。その中の「君今死生地、沈痛迫中腸」という部分を、「漢文」では、「きみいましせいのちにあれば、ふかきいたみのちゅうちょうにせまる」と訓む。「訓む」というのは、訳すということであり、あまりにもさらっとしていて、理屈っぽい印象すら与える。原詩の感じはつぎのようなものであろう。「きみ、いま、しぬ、いきる、ところ。ふかい、いたい、せまる、おく、はらわた」。一つ一つの言葉にパンチがあり、新妻の強い不安と悲しみが伝わってくる。

 このようなことから、「漢文」では中国人の心には迫れない、漢文などやめてしまえという主張が唱えられることがある。しかし、自分自身漢文を教えることもある私は、この主張には同調できない。中国語の原型を保ちながら、それを日本語として読むという「漢文」の工夫は、昔の日本人の大した知恵だと思う。はじめは不自然だった漢文的表現がすっかり日本語の中に腰を据え、日本語そのものを作り変えてきたことを思えば、「漢文」はもはや日本語の中の不可欠の要素となっている。そして、中国語への入門の手段としても、やはり便利なものであり、非漢字文化圏の人たちにはない私たちの特権なのである。「漢文」は、今の日本語がどのように成立したかを理解する上で欠くことができないものであり、それを勉強することは、結果として、中国語を学ぶ手段ないしヒントにもなる。ただ、漢文がそのまま中国語でないことを知り、漢文さえ知っていれば中国語は分かったというような錯覚に陥らないよう心がけさえすればいい。

 今日の日本語の半ばを中国語起源の語が占め、中国起源の漢字を用いているために、ともすれば忘れがちのことだが、中国語は本来日本語とはまったく系統の異なる言語であり、その無縁さでは英語などのヨーロッパ諸語にも引けをとらない。このことだけは、くれぐれも忘れないようにしなければならない。なお、多民族国家の中国では少数民族に配慮して「漢語」ということが一般的であるが、日本で「漢語」というと日本語の中の漢語とまぎらわしいので、本サイトでは「中国語」と呼んでいる。


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