漢字は廃止できるか?

1円切手のデザインは、ずっと、郵便事業の創始者でもある前島。

 漢字を廃止しようという主張は、幕末に前島密(まえじま・ひそか)が将軍に「漢字御廃止之儀」を出してから、何度も繰り返されてきた。しかし、実を結ぶことはなく、今日ではすっかり力を失っている。明治以降の膨大な出版物の量を考えれば、漢字を廃止することによってそれと切れることの損失を考えれば、漢字廃止論はすっかり非現実的なものとなっている。しかし、漢字廃止論の後遺症は意外と根深い。日本語への関心と愛情は、文字表記を含めた日本語の特質を客観的に教えることでしか養えない。日本語の文字表記が何か遅れたものであるかのような印象をばらまいているという点で、漢字廃止論の後遺症には、軽く見ることができないものがある。

 漢字廃止論の主張の骨子は、ローマ字がたった26字で間に合うのに対して、漢字の種類が膨大であるということである。そのために近代化が遅れるという主張は、その後の歴史によって論拠を失ったが、能率が悪いのではないかという論議がいまだに繰り返されている。しかし、これは、ローマ字と漢字の性格の違いを考慮に入れていないという点で、前提自体を誤っている議論である。漢字は、一字一字が意味を持つ字である。清朝の『康煕字典』には約47000字、諸橋轍次の『大漢和辞典』(大修館書店)には5万字ほどの漢字が載せられているが、その大半は「死字」であり、今の中国では、3000字ほどを知っていれば十二分である。その3000字が一つ一つ意味をになっており、その組み合わせることで、中国語の膨大な語彙が形成されていることを考えれば、3000という数は多すぎるとは思えない。

 日本語は、漢語の旺盛な造語力を活かし、膨大な数の西欧語を漢訳することで近代化を達成した。そのことについては、多くの同音語を生み出したとして批判する向きも多い。「こうしょう」と聞いても、それだけでは意味は分からない。「公称」「交渉」「高尚」「口承」「鉱床」「哄笑」など、漢字の字面を見て初めて意味がわかる。こんなことは言語としていびつではないか、という批判である。しかし、現実には、同音語のために誤解や混乱が起きるということは、そんなに多いものではない。なぜなら、まず、語には初めから書き言葉としてしか用いられないものがある。上の例では「口承」以下がそれに当たるが、書き言葉は漢字で区別されるので、何も問題は起こらない。誤解や混乱は話し言葉でもそれほど多くない。話し言葉で用いられる語がしぼられる上に、文脈で区別がつくからである。

 日本語では、よく用いる言葉はせいぜい4拍までにおさめられる。その傾向は、卒論(←卒業論文)、天丼(←てんぷらどんぶり)などから、ロベカル(←ロベルト・カルロス)、ブラピ(ブラッド・ピッド)のように外国の人名にまで及ぶ。かつ、日本語の音韻構造は単純であるから、他言語より同音語が多くならざるを得ない。にもかかわらず、さほどの誤解や混乱が起きないのは、このような理由があるからである。同音語は「櫛」と「串」、「川」と「皮」のようにやまとことばにもあるし、英語のnightとknight、dieとdyeのように、どこの言語にもある。同音語が文字表記においては区別されることは、ここの例にも見られるように、英語などにもあるが、漢字の場合は、同音語の識別だけでなく、初めてその語を知る人にも意味の手がかりを与える役割も果たす。こんなことは、アルファベットには期待できない。文章中に ventriloquism という語があったとき、知らない人は呆然とするほかないが、「腹話術」とあれば、だいたいの意味は分かる。

小学館の"PROGRESSIVE
English-Japanese Dictionary" より

 同音語が問題になるのは、用いられる文脈が似ているときであろう。「私立」と「市立」、「科学」と「化学」、「製糸業」と「製紙業」などの例がある。しかし、そのような例は少なく、「私立」を「民立」、「化学」を「化成学」と言い換えたり、「糸工業」と「紙工業」という言い方を普及させることで解決できると思う。漢語ほどの造語力を持たない西欧語では、一つの語が多くの意味を持つことが多い。たとえば、subject という言葉を英和辞典で引くと、「主題」「主位」「主語」「主部」「主体」「主観」など、さまざまな訳語が現れる。こういった語を言い分ける日本語からみると、これは言わば隠れた同音語という感じがする。しかも、文脈で区別のつきにくい同音語である。英語などでこれを区別しようとすると語形が長くなってかえって分かりにくいであろうが、漢語の場合は、意味がきわめて明瞭である。漢字を知ってさえいれば、それぞれの違いもつかみやすい。

 明治以降、日本人は、漢語の造語力におぼれ、耳で聞いて分からない漢語をむやみに創り出してきた。その多くが中国に逆輸出された。そのため、近代語彙の必要性の高い現代では、筆談でかなりの程度まで意思を通じることができる。しかし、中国語なら漢字で書いても、音で区別され意味も通じるという語が、日本語では同音語となる例が、かなり生まれてきた。「ようとんじょう」「ようけいじょう」と聞けば「養豚場」「養鶏場」であることはすぐ分かるが、「ようまんじょう」と聞いてすぐ「養鰻場」だと分かる人がどれほどいるだろうか? 「うなぎ養殖場」でいいと思う。明治の日本人が漢語の便利さにおぼれすぎた面があることは私も否定しない。権威主義的な時代に、むやみに難しい漢語で人々を威圧する国家の悪習もあったであろう。私は、戦後の文字改革によってこけおどしの漢語が減ったことは評価する。しかし、それだけに、あとは微調整で済ませばいいことであり、漢字全廃などという、赤子を湯とともに流すようなことは論外と思う。

 漢字やそれを用いた漢語の必要性は、日本語の中で、今後も強まりこそすれ、弱まることはないと私は考える。それは、新しい事物がつぎつぎと生まれ、それを示す言葉の必要性も、つぎつぎと生じてくるからである。この難題は、体系性もなしにむやみに英語などを導入することでは、とうてい乗りきれない。漢字という切り札もなしに、多くの同音語を生む結果に終わってしまう。「ゼネスト」「パンスト」「エンスト」の「スト」は、順に「ストライキ」「ストッキング」「ストール」(私も「ストップ」と思っていたが、読者からの指摘で訂正した)だが、それを区別する手立てはない。さらに、TNTやBSEのようなアルファベット略語の問題もある。これよりは、かつて非難された「短大」「農協」のような漢語略語のほうがずっとましである。日本では「漢語の造語力が衰えた」などという人がいるが、中国のコンピュータ用語などを見る限り、漢語の造語力はきわめてたくましくて「造語力が衰えた」とは言えない。日本人がそれを活用しなくなったと言ったほうが正確であろう。

 漢字など文字表記の問題を「能率」の観点から論じる人が多い。ローマ字だけの英語なら、変換もなしに日本語文より遥かに速いスピードで記事が打てるではないか、という具合である。しかし、その分の手間をかけた甲斐があることも確かで、読むときには、漢字かな混じり文は、英語文より遥かに速く、かつ正確に読める。百歩ゆずってローマ字専用が仮に能率がいいとしても、文字表記のような、文化の問題を、「能率」で論じること自体に疑問がある。奈良市の中心部の再開発や交通の便のために、興福寺や東大寺や春日大社を取り壊そうなどという主張が実現するだろうか? 千年以上も伝えられてきたものでも、壊すときは一瞬である。建築の場合は数時間から数ヶ月、言語の場合は一、二世代ですむ。しかし、一度こわしたら、あとの取り返しはきかない。

 もう一つ、こういう能率論者が忘れていることは、文章というものが必ず見なおしが必要なものだということである。あとで読み返してみると、語の選択や表現の誤りで意味の通じにくくなっているところがよくある。文章の理解に及ぼす悪影響は誤字どころではない。こういうことは、どんな文字で書いてもありうることで、ローマ字ならそんな手間がないなどということは無い。

 漢字・漢語はすでに日本語の不可欠の構成要素となっている。そして、漢字文化圏は、いま改めて経済的、文化的なつながりを強めようとしている。このような時代に、鹿鳴館時代の遺産である漢字廃止論は、もはや存在する意義を失っていると私は考える。


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