古語と現代語の動詞の活用

 学校で教えられる日本語文法では、活用する自立語を「用言」といい、動詞、形容詞、形容動詞の三つに分かれる。しかし、その活用の種類と活用形の名称は、文語(古語)と口語(現代語)とで異なる。学校文法の用言の活用についての説明は、江戸時代の国学者などの学説を受け継いだものである。江戸時代には標準となる口語というものが確立されていなかったので、活用の整理は、まず文語について行われた。明治に入ってそれが口語に応用され、今日にいたっている。

        文   語     口   語



































 サ
 行
 変
 格













 す
 る

 ○

たと しせさ







 す
 る











 す
 る
已仮
然定










 す
 れ










 し
 ろ

 動詞の活用について、文語文法と口語文法とを比べると、まず活用の種類が大幅に減っていることが分かる。四段活用が五段活用と言い直されたのは、たとえば、「勝たむ」が「勝たう」を経て「勝とう」となり、それまで無かったオ段ができたからである。しかし、このオ段はア段の変化したものなので、それまでの体系をまもるために、未然形の変種とされ、それに助動詞「う」がついたものと解釈されている。五段以外の動詞では、「見よう」のように、未然形に「う」の変種である「よう」がついたものと説明されるので、同じ意味を持つ「う」「よう」をともに未然形につくとした方が説明も整合的になるためもある。

 五段以外の文語で「いざ、勝たん」などというと打消のようだが、これは「む(mu)」のuの部分が脱落したためで、「う」となったのは、逆にmの部分が脱落したためである。脱落の仕方に2通りあることは、「すみません」が「すいません」とも「すんません」ともなるのと同じことである。
 
 今日の上一段の大半、下一段のすべては昔の上二段、下二段が一段化したものである。文語で唯一の下一段動詞だった「蹴る」は今日では五段活用に合流している。「蹴る」がもと下一段だった名残は、「足蹴」、「蹴鞠」などにうかがうことができる。ナ変、ラ変も五段に合流し、かつて9種類あった活用の種類が、今日では5種類に減っている。

 活用形の名称としては、已然形が仮定形と名を変えたことが目立つ。「已然」とは「已(すで)に然(しか)り」ということで、「未(いま)だ然らず」を意味する「未然」と対になる言葉だったのである。こんにち「ば」という助詞は、仮定形にしかつかないが、昔は已然形のほか、未然形にもつき、それぞれに意味が違っていた。「勝てば」といえば、今日の言葉では「勝つと」「勝つので」といった意味となり、仮定の意味はない。「勝つなら」という仮定の意味を表すには、未然形に「ば」をつけて「勝たば」のように言わなければならなかった。このような用法は、「急がば回れ」「毒食わば皿まで」のようなことわざに残っている。未然形に「ば」をつける用法はやがて廃れ、已然形に「ば」をつけた形が仮定の意味をも持つようになったため、活用形自体も「仮定形」と呼ばれるようになったのである。

 こんにち、未然形につくのは、否定を表す「ない」「ぬ」、使役を示す「せる」「させる」、受身などを示す「れる」「られる」、そして「う」「よう」だけである。このため、「未然」という意味がぼやけてしまっている。しかし、文語では、「勝たば」にしてもそうだが、希望を示す「勝たまほし」「勝たなむ」など、「未然」と呼ぶのにぴったりの表現が多かった。

 口語を文語と比べてみて、もう一つ目立つのは、終止形と連体形とがすべて同じ形になってしまっていることである。このことは形容詞でも同じで、昔は終止形は「山高し」のように、連体形は「高き山」のように用いられ区別があったのに、今ではどちらも「高い」となって区別がない。終止形と連体形の区別がないことはときに不便で、「雨が降る天気ではない」は、降るとも降らないともとれる。もっとも「降る」のような五段(←四段)動詞の場合は、昔から区別がなかったのであるが……。

 口語文法において、終止形と連体形の区別が設けられているのは、唯一形容動詞において、両者の区別があるからである。形容動詞の終止形は「だ」、連体形は「な」で終わる。「町は静かだ」と「静かな町」とを比べていただきたい。もし、「町は静かな」といったら、何か落ち着きが悪いだろう。しかし、このように連体形で言い終わるということは、ときにある。「なんてきれいな」というと、余韻が残って、感動がより強いように聞こえる。

 動詞、形容詞において終止形と連体形が合流したのは、連体形が消えたのではなく、終止形が消えたからである。先に述べた「なんてきれいな」のような表現が余韻を残すものとして好まれ、連体形が終止形の代わりに好んで用いられる時期があったためである。これに二段動詞の一段化などが加わって、文語から口語への変化が完成した。終止形についていた助動詞なども、連体形につくようになった。「来るべき時」といっても、今日では少しも不自然ではないが、文語では「べし」は終止形につく助動詞であり、「くべき時」と言わなければならない。「秋はくるべし」というと、まもなく秋が来るように錯覚しやすいが、これは実は「秋は暮るべし」ということであり、秋がもうすぐ終わるということなのだから、まるで逆だ。

 口語のサ変では、未然形が「し、せ、さ」の3種類もあるが、「し」は「ない」「よう」、「せ」は「ぬ」(打消の助動詞「ず」の連体形が終止形をも兼ねるようになったもの)、「さ」は「れる」「せる」がそれぞれつくときに使い分けられている。「される」「させる」は昔は「せさせる」「せられる」と言っていた。「される」「させる」を全体で助動詞としていまうと、動詞もなく助動詞だけで文節が成り立つことになってしまうため、便宜的に「さ」を未然形に加えたものである。このように、学校文法の説明には、ときに便宜的なところがある。たとえば、「知らないで」など、どう文法的に解釈したらいいのだろうか? 打消の助動詞「ない」の終止形に助詞の「で」がついたとする解釈もあるが、「ないで」全体を「ない」の連用形とする解釈もある。


表紙へ


inserted by FC2 system