尊敬語と謙譲語など

 日本語の敬語は、ふつう大きく三つに分けられる。尊敬語、謙譲語、丁寧語である。このうち、尊敬語を話し相手に対する敬意の表現と考えている人が多いが、それは違う。「鈴木先生がいらっしゃったよ」という表現を考えてみれば分かるように、敬意は話し相手ではなく、話題の人に向けられているのである。ただ、「こちらへはいついらっしゃいましたか」のように、話題の人がたまたま話し相手であることはある。相手への敬意を示すのは、尊敬語というより、むしろ「ます」、「です」といった丁寧語である。「鈴木先生がいらっしゃいましたよ」と言ってはじめて、話題の人にも話し相手にも同時に敬意を示したことになる。「お話」「み仏」などの「お」や「み」も、丁寧語に分類される。しかし、「ちょっとォ、おハシ取ってェ」などという言い方を考えると、相手に敬意を示しているとはとても言えない場合もあるので、美化語として別に分類したほうがいい。

 尊敬語や丁寧語は、日本語以外にもよく見られる。英語には日本語の「閣下」にあたるHis Exellencyという尊敬語があり、直接よびかけるときにはYour Exellencyという。タイ語では、文の最後に男性ならkrap、女性ならkhaをつけて言うと相手に対する敬意を示したことになるというが、これは丁寧語といえる。しかし、特に敬意を示すための動詞があるなど、敬語が目立って発達している言語といえば、日本語以外には朝鮮語をおいてない。「チャダ(寝る)」「モクタ(食べる)」「チュクタ(死ぬ)」に対して、「チュムシダ(お休みになる)」「チャプスシダ(召し上がる)」「トラガシダ(亡くなる、本来の意味は「お帰りになる」)という敬語動詞がある。しかし、その朝鮮語でも謙譲語は少ない。自分のことを対等な相手には「ナ」というのに対し、目上の前では「チョ」というなど、皆無というわけではないのだが、日本語に比べるとぐんと少ない。

 謙譲語とは、自分を下げる言葉である。さすがにもう死語となったが、昔は自分の妻を「愚妻(「愚かな妻」ではなく、「愚かな私の妻」だという言い訳(?)もあるが……)」、自分の子供を「豚児」と呼んでいた。謙譲語は自分のことに対してしか使えない言葉であるはずだが、それを人のことに使う誤用が今では珍しくない。歯科医院で「薬は○○薬局でいただいて下さい」という貼り紙を見たことがあるが、これはおかしい。いただくというのは、本来、ものを頭にのせることを示す。賞状をもらうとき、お辞儀をしながら頭に押し当てる動作を考えたらいい。「~で拝見してください」もおかしい。そのことは、「拝」が「おがむ」という字であることを考えればすぐ分かる。

 謙譲語とは、いわば言葉でするお辞儀である。小さいころ、明治生まれの祖母と一緒に道を歩いていたときよくあったことだが、祖母は知り合いと会うと立ち話を始める。子供にとっては面白い話ではないので、「ではこれで」とような言葉が出るとホッとする。ところがそれからが長い。お辞儀をかわして少しでも頭の下げ方に差があると、下げ方の足りなかったほうがお辞儀をやり直す。すると立場が逆転して今度は相手があわててやり直すということの繰り返しが延々と続いた。実際にはそれほど長い時間ではなかったかも知れないが、子供心には耐え難いほど長く感じたものである。祖母たちは、お辞儀を繰り返しながら、言葉の面でも同じことをしていたように思う。あの世代のとくに女性はみんなそうであった。

 自分と相手(または話題の人)との関係をシーソーにたとえるなら、「召し上がりますか?」と尊敬語を使えば相手を押し上げることになり、「いただきます」と謙譲語を使えば自分を押し下げることになる。「食べますか?」と丁寧語を使っただけでは、シーソーは水平であるし、敬語を用いずに「食べるか?」と言うと、場面によっては、むしろ相手を下げたような感じすらする。尊敬語を使おうと謙譲語を使おうと結果は同じで、シーソーは相手の方が高くなるが、この結果を逆にする表現も日本語にはある。「俺様」のように自分を押し上げる自尊語と「ぬかす」のように相手を押し下げる卑下語である。猫が「吾輩」などとぬかす自尊語はまだ御愛嬌だが、「ほざく」「くたばる」「くらう」「~しやがる」などの卑下語はどうにも頂けない。謙譲語のような押し下げる手段があるからこそ、このような卑下語も出てくるのである。こんな言葉を生み出すもととなるぐらいなら、謙譲語などなくしたほうが日本語のためという気もする。自尊語や卑下語を「敬語」ということはできないので、日本語の「敬語法」は正確には「待遇表現」といったほうがいい。

 謙譲語を乱発すると、卑屈な感じがしてむしろ感じが悪い。私自身、「てまえども」のような表現は好きになれない。いい年なので、謙譲語を使いこなす自信はあるが、相手を立てるのは当然としても、自分が卑屈になることはないという気がして、謙譲語は好きになれない。尊敬語もあまりに仰々しいのはいやみだし、丁寧語も「お」や「ご」をつけすぎると耳障りである。企業などは、若い新入社員に昔ながらの敬語を仕込もうとするが、アナウンスなどのときを除けば、あまり身についていない感じで、ちょっと客の側から尋ね事をしたりすると、たちまち「ため口」になって馬脚をあらわす。むしろ、形式にこだわらず、相手に不快感を与えないさらっとした表現を考える習慣をつけさせ、少しずつ言葉づかいを改めさせていったほうが効果的だと思う。要は相手がどう感じるかという配慮を欠かさない心を教えることであり、型にはまった言い回しを教えることではないのである。

 アメリカの車掌は検札のとき、May I see your ticket? と言う。これなら客は一応イエスとかノーとかいう機会を与えられたことになる。Show me your ticket.では、pleaseをつけても命令であることに変わりはない。しかし、日本語で「切符を見てもいいですか?」ではどうもおかしい。やはり「切符を拝見致します」と二つの謙譲語を重ねることになる。「切符を見せていただけませんか?」にも、「いただく」という謙譲語が入っている。「切符を見せてくれませんか?」や「切符を見せてもらえませんか?」ではやはりまずい。こう考えてみると、日本語の敬語表現の難しさが分かってくる。世界がボーダーレスの時代に入った今、相手に敬意を払いつつも胸を張って接する習慣を日本人が身につけるためには、謙譲語は簡略化し、やがてはなくしていくのが望ましいが、無理をせず、ある程度なりゆきに任せるほか方法はないようである。


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