形容動詞とは何か?

 文法というものが数多くあるにもかかわらず、日本の学校で教えられる文法は細部を除けばどの教科書も同じで、橋本進吉が唱えた文法(橋本文法)に基づいている。橋本文法が採用されたのは、文法学説の中で最も優れていたからではなく、形式重視の文法であるため、学校という場で教えるのに向いているからためである。その普及は戦前の国定教科書時代にすでに完了していた。学校文法が橋本文法という一つの学説に統一されていることが悪いというわけではない。学校によって教えられる文法が違っていたのでは、生徒は混乱するばかりであろう。ただ、教える側には、学校文法が統一されているのは、文法的に言語を考える第一歩として分かりやすいものを選ぶという方便にすぎないのだという認識が必要である。学校文法を絶対視し、これだけが正しい文法だというような考え方、教え方をしてはならないのである。ここでは、学校文法となった橋本文法の問題点を「形容動詞」を通じて考えてみたい。

 まず、「この魚はまぐろだ」と「この魚は新鮮だ」の二つの「だ」の違いを説明していただきたい。中学校の文法問題であるが、習ったような気もするがよく分からないというのが大半の人の反応だと思う。学校文法では、「まぐろだ」は「まぐろ」という名詞と「だ」という助動詞の2語から成ると説明されるのに対し、「新鮮だ」は形容動詞とされ、全体で一語だとされる。「新鮮」だけでは1語とされず、形容動詞の語幹だとみなされ、「だ」は活用語尾とみなされている。学校文法はこの違いを徹底的に形式で説明する。「まぐろ」という名詞はそのまま助詞をともなって、「まぐろが」「まぐろを」ということができるが、「新鮮」はそれができず、「新鮮さ」と言い換えなければならない。したがって「新鮮」は名詞ではないのだから、それに続く「だ」も「まぐろだ」の「だ」と同じには考えられないということになる。

 つぎに「新鮮な魚」という言い方に注目してほしい。この「な」は、魚という名詞につなげるために、「だ」という語尾が活用したものだと考えるのである。そしてこの「な」は、「新鮮、ひややか、まじめ」などの限られた言葉にしかつかないので、独立した助詞または助動詞としてみなすことはできないと考えられる。「まじめな人」とは言えても、「東京な人」とは言えないではないか、というわけである。これに対しては、「広い東京なのだから、昔の知り合いにばったり出会うことはめったにない」などという言い方もできるではないか、という反論があるであろう。しかし、学校文法では、その場合の「な」は、「の」「のに」「ので」の3語にしか続くことができないので、「新鮮な」の「な」とは異なり、助動詞「だ」の、用法の限られた連体形だとみなすのである。同じ「健康」でも、「あの人は健康だ」というときは形容動詞だが、「いちばん大切なものは健康だ」というときは名詞である。

 私が形容動詞という品詞に釈然としないのは、まず、一方に「新鮮です」という言い方もあるからである。学校文法ではこれを形容動詞「新鮮だ」の語幹「新鮮」に直接助動詞「です」がついたものだと苦しい説明をしている。最近では、「新鮮です」を別種の形容動詞として扱っている参考書も見かける。一般的にも、「新鮮だ」が一語だと感じる人は少ないのではないかと思う。文語文法でも、同様に「あはれなり」で一語で「あはれ」は語幹だとされているが、どうにも自然な言語感覚に反する。形容動詞は意味内容からいえば物事の性質や状態を示すという意味で形容詞に近い。形容動詞という品詞が設定されたのは、形容詞と意味内容の近いこれらの言葉を「活用し、単独で述語となる」用言として、形式上も形容詞と同じ範疇に入れたいという気持ちからでもあったと思う。

 外国人を対象にした日本語学校などでは「高い」「強い」などの形容詞を「イ形容詞」、形容動詞を「ナ形容詞」と便宜的に名づけて教えているという。外国人に日本語をマスターさせるという具体的な目標があるから、このような割り切り方ができるのである。しかし、それなら子供を対象とした学校も同じではないかと思う。とにかく形容動詞というのはどうにも分かりにくい。言葉を文法的に考える習慣をつけさせるということを目標にするのなら、もっと分かりやすくできないかと思う。

 たしかに「新鮮」を名詞とみなすことはできないが、別の品詞とするならば、無理に用言に含めることもないと思う。たとえば、「静詞」とでも名づけて活用のない体言の一種としてみてはいかがだろうか? そうすれば「まぐろだ」の「だ」も「新鮮だ」の「だ」も等しく助動詞となり、すっきりする。「新鮮です」の「です」も同様に助動詞となり、明快になる。名詞とは別の品詞としたのだから、「な」の用法に差ができることも説明がつく。意味内容的には体言より用言に近いというところに抵抗を感じるかも知れないが、つぎのような例はどうだろう? 「阪東玉三郎は役者だ」というときの「役者」とはちがい、「あいつはなかなか役者だ」というときの「役者」は、意味内容から言えば形容詞に近い。しかし、形式重視の学校文法では、「役者な人」という表現はないので、「役者だ」という形容動詞の存在は認めていない。それなら、むしろ形式重視をいっそう徹底させ、中途半端に意味を考慮に入れるのはやめたらいい。戦前のように、学校で教えるものが唯一正しいものとして権威づけられる時代でもないのであるから、文法を一つの方便と考える発想も必要だと思う。


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