血液型性格判断の怪

 「血液型」と入力して検索してみよう。おびただしい数のページがヒットする。そのほとんどが、人間の性格は血液型で決まるということを前提としたもので、これに異議をさしはさむページは暁天の星のごとくに少ない。A型は几帳面、B型はマイペース、O型は八方美人、AB型は二重人格というのが定説らしい。

 しかし、私はこれをまったく信じていない。仕事に関しては几帳面だが、余暇の過ごし方はマイペース、人当たりはよいが、ひそかに意外な趣味を持っているという人だってたくさんいるだろう。その場合、その人は何型ということになるのだろうか? 一人の人間にはさまざまな面がある。小心な人が場面によっては意外な大胆さを見せたり、その逆があったりするところに人間や世の中の面白さがある。これに対してABO式の血液型には4つの類型しかない。こじつければ、どんな人だって任意の類型にあてはめることは可能である。だから、一旦血液型性格判断を信じてしまうと、それを実証するかのように見える例を集めることは誰にでも容易である。

 人間は性格のみならず、肉体的特徴も千差万別である。その中でとくに血液型に、それもABO式(他にRh式など多くの血液型を分ける基準がある)だけになぜスポットが当てられるのかがわからない。思うに、誰の目にも分かる肉体的特徴ではボロが出やすい。そこで、検査でしか分からず、科学的な感じのする血液型が選ばれたように思われてならない。また、ABO式の血液型ではAとОが多い。そこで、血液型性格判断ではAとОに好意的な評価がされるようだが、これはそのほうがよく売れるからという思惑もありそうである。私はたまたまB型だが、いくらいっても、信じ込んでしまった人には、ひがみとしか取られないかも知れない。

  AB
日本  9 38 22 31
中国  6 23 25 46
インド  9 21 41 29
アメリカ白人  4 40 11 45
フランス  3 46 9 42
ナイジェリア  6 21 29 44

 血液型の分布には地域的な変異がある。私と同じB型はヨーロッパ人には少ないようだが、ヨーロッパ人にはマイペースな人は少ないのだろうか? むしろ逆なような気がする。性格の分布に(地球規模で)地域差があるとしても、それが先天的な分布の比率なのか、社会のあり方を見て後天的に選択したかをどうやって見極めるのであろうか? 私の一家はそろってB型であるが、性格はばらばらなように思える(だからマイペースといわれるのかも知れないが……)。先住アメリカ人(いわゆるインディアン、インディオ)は、純粋な人は全員O型だということだが、するとマヤやアステカ、インカの文明は同じ性格の人ばかりで作られていたのだろうか? ちなみに血液型の国別分布は右の表の通りだという。

 2000年のシドニー五輪ではアボリジニのキャシー・フリーマンが聖火の最終ランナーを務め、陸上競技で金メダルを獲得。

 ヨーロッパでは、かつて白人種の優秀さを示すことを目的とした優生学なるものが流行したことがある。はじめに目的ありきなのだから、科学として成り立つはずもない代物であった。優生学者は血液型にも目をつけ、A型が優秀でB型は劣等だとして、B型の比較的多いアジア人を差別する論拠にしようとした。しかし、この理論は彼らが劣等と信じ込んでいたアボリジニにA型が多いことが分かって崩壊した。今日では優生学自体がエセ科学としてかえりみられることはない。

 血液型性格判断も、このようなエセ科学の一環として始まった。しかし、黄色人種の国日本ではさすがに人種間の優劣の基準として取り入れることはできず、性格を分けるものと焼きなおされて取り入れられた。兵士の適性診断に利用し、精鋭部隊をつくろうという試みもなされたという血なまぐさい歴史も持っている。

 ひとりの人間にはさまざまな面がある。どのような面でその人を評価するかは、時と場合により異なるはずであるのに、一つの面を絶対視し、つねにその人を排除するところに差別が生じる。血液型性格判断も仲間同士の冗談めいたコミュニケーションに用いられるなら、目くじら立てるほどのものでもあるまいが、このような差別につながる危険がないとはいえない。性格とは素質と環境の絡み合いで形成されるものであり、その絡み方は人それぞれである。だから、一人一人を偏見なく見極めることこそ大事なことであり、たかが血液型で判断しようなどというのは、怠慢のそしりを免れない。

 血液型性格判断があたかも常識のようになっているのは、日本と韓国だけで、世界のほとんどの地域では、血液型と性格が関係があるなどという考え方があることすらほとんど知られていない。それなのに、日本人には、欧米人には全員に科学精神があると思い込んでいるのか、血液型性格判断が欧米から来たと思いこんでいる人が多く、欧米人に血液型を聞いてけげんな顔をされてしまう。まさか日本人と韓国人だけが血液型で性格が決まるなどということはないから、血液型「人間学」を唱える人は、「世界」の非常識に対して闘いを挑まなければならない。しかし、その論拠はあまりにも薄弱である。それよりは、日本と韓国のように単一民族幻想の強い国に限ってなぜ広まるのかというように、この問題を比較文化論の観点から論じたほうが実りが多い。アウシュヴィッツの悲劇を経験したヨーロッパでは、血液型人間学は優生学の亡霊とみなされるに違いない。自分たちを差別するために唱えられた「理論」が、日本で性格判断に利用されていると聞いたなら、日本人というのは何と無邪気な連中だろうとあきれられるに違いない

(追記) この文章を書いた当時に比べれば、血液学性格判断に批判的な記事がウェブ上に増えており、筆者としては嬉しく思っています。なお、非科学的な迷信というのは欧米にもよくあり、血液型性格判断を信じる人も少しはいるが、これほど異様な普及をしているのは日本と韓国だけです。

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