日本で「近代」というと、一般には明治以降のことである。modernという語の日本語訳が「近代」に定着するまでにはいろいろ紆余曲折があったようで、明治の初めのころは、むしろ「近世」の方が主流であった。今日、「近世」といえば、むしろ江戸時代をさすという具合に、語の分担が決まってきている。「近代」という言葉は、西洋語の翻訳のために作られた言葉の多くがそうであるように、プラスの価値判断を含んでいた。しかし、「近代主義」というと、むしろ何でも近代を礼賛する考え方をけなす言葉として使われることが多かった。したがって、ここで日本語の「近代化」というとき、日本語が「よく」なったという意味で言っているのではなく、日本語が「近代」にも対応できる部分をも充実させたという意味でとっていただきたい。考えてみれば、「近代」とはある時点から近いという、ある時点の人たちの主観に立つ言葉にすぎず、時代に対する何らの評価も含まない。藤原定家は「近代秀歌」という歌論を書いたが、ここで「近代」と言われているのは、私たちには遠く平安末期のことである。すでに「明治は遠くなりにけり」と言える「現代」にあって、もういい加減に私たちは、「近代」をさす別の言葉を作らなければいけないのではないか、という気もする。 古い日本語には、名詞的な発想が乏しかった。「原因の究明に努力します」などとは言わず、「なぜか考えてみる」というのが、和語の伝統であった。近代(明治以後)の日本には、欧米の文物が津波のように押し寄せてきた。「モノ」であるから、新しい名詞を作らなければならなかった。その際、たよりにされたのは、和語ではなく、旺盛な造語力を持つ漢語であった。「シャボン」「ケット」「ステーション」「ポリス」といった言葉が、そのまま取り入れられたが、やがて、「石鹸」「毛布」「駅」「巡査(←邏卒)」といった漢語に変えられた。「ランプ」や「ステッキ」のように、洋語のまま取り入れられたものも、文字に書かれるときには、「洋燈」「洋杖」などと書かれていた。 同じことは、「文化」という言葉についても言える。「文化」という言葉は古くから中国にあったが、明治のときにcultureの訳語という別の意味を与えられた。cultureの語源が「耕す」ということにあることは、今日ではよく知られるようになった。人間が自分たちの幸せを実現するために自然を改造してゆくことがcultureの本来の意味であった。したがって、「文化」を持たない人間はいない。自然に働きかけていることが一目瞭然な「未開」民族こそ、「文化人」と呼ばれてしかるべきであった。しかし、日本で「文化人」というと、何やら学術や芸術にかかわる人だけに限られる趣があった。のみならず、「文化住宅」「文化鍋」「文化包丁」などという言葉まであって、何でも新しくてよさそうなものに「文化」と名づけることさえ流行った時期があった。 明治以降の近代化を、言語の面から見るならば、漢字の鎧を着た西欧化だとも、西欧化を契機とした中国化だともいうことができる。今日の日本語の辞書は漢語と和語が見出し語数としては拮抗している。しかし、話し言葉で用いられる延べ語数としては、今も和語が圧倒的に多い。そして、洋語はコンピュータ関係やファッション関係などの特殊な分野を除けば、一般に思われているほど多くはない。新聞に載っている記事のうち、洋語の部分に赤線を引いてみよう。意外と少ないことが分かるであろう。非漢字文化圏である非西欧圏ならこんなに少ないということはない。 漢字を音訓両様に読むことによって、日本は国内での言語的分断を避けることができた。日本人は、最も身近な和語の土台の上に、漢字を通して中国や西欧の文化をも取り入れることができるようになったのである。明治以降に日本で作られた漢語は、本家の中国にも大量に逆輸出されるようになった。「江戸」という和語で呼ばれていた土地が「東京」という漢語で呼ばれるようになったことに象徴されるように、日本にとって「近代化」とは、漢語化だったともいえるのである。明治に西欧語の翻訳のため作られたおびただしい数の和製漢語は、本家の中国に逆輸出された。しかし、今の日本はそのような情熱を失い、無秩序に英語を取り入れている。最近の中国では、コンピュータ用語もどんどん漢訳されている。これは、心がけの問題というより、中国語自体がきわめて外来語を取り入れにくい言語であるためである。そのうち、中国で作られた現代漢語が日本語に入ってくることもないとは言い切れない。 |