「子ども」という文字表記

 「子供」という表記はよくない、「子ども」と書くべきだという主張がある。教育界などでは、この考えはかなり普及しており、原稿に「子供」と書いても「子ども」と直されてしまうことが多い。

 「子供」か「子ども」かという表記の問題は後回しにして、まず「とも」というやまとことばについて考えてみたい。「とも」には、二つの意味がある。一つは主(ぬし)に付き従う者という意味であり、もう一つは同格の仲間という意味である。「とも」を前の意味にとるなら、「こども」を大人の付属物か「供え物」のように見ていることになり好ましくなく、後の意味にとるなら、一人一人の子ではなく、まだ成長段階にある複数の人間の総称にすぎないから何の問題もないということになる。「供」という漢字は、ちょうど「とも」の前の意味に当たるようだ。「提供」「供出」などの言葉がそれを物語る。「供」という漢字表記は、「とも」の意味を「付き従う者」という意味に特定することになる。そこで、「子ども」という表記はいいが、「子供」ではだめだという主張が出てくるわけである。「子供」表記をよくないとする人が話し言葉としての「こども」まで追放しようといっていないのも、そのためと思われる。

「はれときどきぶた」シリーズで知られる絵本作家矢玉四郎さんは「子ども」表記批判の急先鋒。その主張については、はれぶたのぶたごやの中の子ども教の信者は目をさましましょうを参照のこと。矢玉さんには本サイトの掲示板にも何度か御投稿頂いており、この画像も許可を得て転載した。

 「とも」というやまとことばが、上下関係ぬきの仲間という意味でも用いられるようになったのは、平安時代以降のことである。そのような意味での「とも」は今日でも使われているが、その場合には「友」と書き、「供」とは書かない。もっとも、「友」の意味での「とも」という言葉は、今日ではやや文語的であり、話し言葉としては「ともだち」というのが普通である。「たち」は、本来は複数を示す接尾辞であり、「達」と当て字される。「たち」は、「とも」と異なり、敬意のこもった複数接尾辞である。貴族のこどもをさす「公達」は「きんだち」と読まれるが、これは「きみたち」が姿を変えたものである。関西に住み始めたころ、「お子たち」という言葉をよく聞き、いい言葉だなと思ったが、最近はとんと聞かなくなった。平安時代に「とも」が「友」の意味をも持ち始めたのと時を同じくして、接尾辞としての「ども」は、「文(ふみ)ども」「歌ども」のように、人間以外の物の複数を示すのにも用いられるようになった。しかし、人間につける場合は、やはり卑下して用いられる言葉であり、「たち」をつけるほうが無難だったようである。「ども」に卑下のニュアンスがあることは、今日では「てまえども」という言葉に残っている。

 「ともだち」という言葉は、本来は複数の友人をさす言葉であったが、今日では単複双方に用いられる。「○○ちゃん、ともだちが来てるよ」というとき、一人だけなのかどうかは分からない。「ともだちたち」という言い方はない。「○○ちゃんはともだちが多い」というときの「ともだち」は、明らかに「ともだちたち」の意味だが、「ともだちたち」などということはない。友達が複数であることを示したいときには、「友人たち」のように漢語を用いる手もある。しかし「○○ちゃんは友人たちが多い」とは言わない。「多い」という以上、複数であることは自明だからである。

 本来は複数を示す「ともだち」が一人の「とも」をさすのにも用いられるようになった。「こども」という言葉も、万葉集の山上憶良の歌に「瓜食めばこども思ほゆ」とあるときは明らかに複数なのだが、今日では一人の「子」をさすときにも用いられる。つまり、「ともだち」にせよ、「こども」にせよ、もはや全体で一語とみなすほかはない。とすれば、一人の子をさすときには、私としては「子供」か「こども」のどちらかで書きたい。「子ども」では、この語を一語としては認めず、「子」に複数接尾辞をつけたことになってしまう。「ども」に見下げた感じがあるとすれば、「子ども」という表記こそ、「ガキども」という意味になってしまう。 

 私は、今日の「こども」という言葉に卑下のニュアンスは感じない。この場合の「とも」は、むしろ「友」の意味だと感じている。「子供は子供連れ」とか、「子供仲間」というのと近い感じで「とも」がそえられているように思う。とすれば、「子ども」と書くべきだという人たちの主張に配慮するならば、「子友」と書くという妥協案も可能である。しかし、私としては、わざわざそんなことをしなくても、すでに慣用化されている「子供」で十分だと思う。

 「めくら」とか「つんぼ」を使わないようにしようということなら、私は賛成である。現にそう言われた人たちが不愉快になるからである。そして、そういった障碍は一生背負わなければならないものだからである。しかし、子供が子供と言われて不愉快になるだろうか? 子供はいつまでも子供だろうか? 大事なことは、子供だからといって不当に人権が侵害されないようにすることであり、そのためには、子供は大人なのではなく子供なのだという認識が不可欠のものだと思う。「供」という漢字に見下す語感があるということは、歴史的(通時的)にいえることに過ぎない。この考え方を当てはめれば、逆に「貴様」とか「お前」という言葉は、本来敬意のある表現だったのだから、言ってもかまわないということになる。しかし、問題は、語の成り立ちではなく、現在、どのような意識でその語なり字なりが用いられているかということで判断しなければならない。

 「子供」と書かずに「子ども」と書けという主張は、運動論的にもあまり得策とは思えない。こんなところで踏絵を踏まされたのでは、せっかく子供の人権を守る運動に加わろうと思った人を、問題の本質とは別のことで排除することになり、運動の輪をみずから狭めることになる。そして、問題の本質から目をそらせ、「子ども」と書きさえすれば子供の人権を尊重したことになるかのような錯覚を生んでしまうであろう。

 私は、「子供」表記にどうしても抵抗を感じるという人が、「子ども」と書くのはいっこうにかまわないと思う。しかし、一律に「子ども」と書かなければならないという考え方には賛成できない。「子供」と書くか、「子ども」と書くかは一人一人に任せることにして、もっと大事な問題をさきに論議すべきではないだろうか?


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