日本では、「国語」という言葉がさかんに用いられる。これに対し、たとえば英語圏でnational languageなどという言葉が用いられることはめったにない。「国語」という言葉は、二つの前提というか、虚構の上に成り立っているように思われる。一つは、その言語がその国家の中だけで話されているということ、もう一つは、国家の中ではその言語だけが話されているということである。しかし、この二つの条件が同時に満たされることは、世界的に見ればほとんどないといってよい。英語やスペイン語が多くの国で話される一方、国内に多くの言語を抱える国も、たくさんある。50あまりの少数民族を抱える中国では、「中国語」という言い方が避けられ「漢語」というのが一般的である。インドとなると「インド語」などというものはなく、文字すら多様である。中国でも漢字のほか、モンゴル文字やチベット文字などさまざまな文字が用いられている。 「国語」という言葉は、学校教育を通じて日本人に浸透した。しかし、その歴史は意外に新しく、1900(明治33)年の第三次小学校令により、それまでの「読書」「作文」「習字」の3教科が「国語」として統一されてからである。国語教育は「国史」とともに、国民(臣民)教育の根幹をなすものとして行われてきた。そのことから、「標準語」の強引な普及が始まった。「方言」は貶められ、「撲滅」の対象とされた。日本語自体の多様性すら認めないのだから、アイヌ語などの他の言語の存在が認められるはずもなかった。そして、植民地の獲得とともに、朝鮮や台湾の人々に対しても「国語」が押し付けられることになる。この押し付けは、朝鮮や台湾が日本の国家の一部となったことを大義名分としていた。これによって、「国語」という言葉が、「国家の言語」という意味であることが、いっそう明白になった。そして、第二次大戦中には、広範な占領地で国家の言語としての日本語の普及が図られた。 日本は「単一民族国家」だと言われる。しかも、それを誇りにしようとする者が今も多い。原理的に考えれば、一人でも異民族がいれば「単一民族国家」は成り立たない。確かに日本は、日本語を母語とする者が人口の圧倒的多数を占める国ではある。しかし、それを自慢しようとすることは、たやすく異民族の排斥へとつながってしまう。考えてみれば、仮に「単一民族国家」だとして、それがなぜ自慢になるのだろうか? 「単一民族国家」と称しながら、いま、日本国内で行われる結婚の約30組に一件は、外国人との結婚となっている。学校のどのクラスにも将来外国人と結婚する生徒がいる計算となる。そのような時代に、「国語」「国史」「邦人」と言った言葉を保持し続けることが、日本の孤立を招くことになる恐れも少なくはない。 ある言語が国家の公用語であるかどうかは、言語学にとっては問題にはならない。経済力からいえば圧倒的なシェアを持つにいたった英語も、アマゾン流域の奥深く数十人の人々だけに話されている言葉も、対等な研究対象である。ある方言が「標準語」のもとになったからといって、その方言を特別視することもない。そういったことは、政治の問題であって言語の問題ではない。言語学の一分野としての社会言語学でこういった問題を扱うことはあるが、本来は言語学が扱う問題ではない。パンダとコアラのどちらが可愛いかとか、タイとヒラメのどちらがうまいかなどという問題が生物学が扱う問題ではないのと同じことである。 |
画像として用いた切手は、「満州国」や第二次大戦中の占領地で日本によって発行されていたもの。 |