国字と国訓

 中国で花が咲くことは「開花」、散ることは「落花」という。さくら前線を開花前線ともいい、落花狼藉という四字熟語もある。「さく」「ちる」という花だけに使う動詞を用いる日本人からみれば、かなり無粋にみえる。そういえば、英語でも花が散ることはfallであるし、咲くほうもbloomという動詞もあるが、come outという無粋な表現もしばしば用いられる。「さく」「ちる」という言葉が日本語独特のものであるなら、それを表すぴったりの漢字はなく、意味の近い漢字を借りてくるほかはない。「さく」に対しては「咲」という字が当てられた。花がさくのになぜ口へんなのか? 実はこの字は、「笑」という字の古字なのである。花が咲くようすを口を開けて笑うのにたとえたことになる。このように、漢字のもとの意味から大きくずれた訓を「国訓」という。

上がコブシ、
下がモクレン

 国訓は動植物名に多い。「鮎」という字は日本では「あゆ」だが、中国では「なまず」のことであり、似ても似つかない。「辛夷」と書けば日本では「こぶし」と読むが、中国では「もくれん」のことである。中国の唐の詩人王維の詩では、「辛夷」は「木末芙蓉花」と木に咲いた蓮にたとえられている(「芙蓉」も中国ではもともと「蓮」のこと)が、「辛夷」を「こぶし」と解したのでは、その豪華な感じが伝わってこない。漢字の発祥地である北部中国の風土は日本とはかなり異なり、乾燥している。「南船北馬」など、中国の南北の風土の違いを示すことわざも多い。「米を食べる人間は皇帝にはなれない」ということわざもある。日本人は中国全体が日本と同じ米食文化圏と考えやすいが、中国で米を主食とするのは、長江流域から南の地域に限られ、北部は麦やこうりゃんなどの雑穀が主であり、アメリカ大陸から伝えられたトウモロコシがのちにこれに加わった。米食文化圏の出身で皇帝になったのは、確かに明の開祖である朱元璋までいなかったと思う。したがって、中国で「田」と書くと「はたけ」のことであり、「た」と読んで水田の意味に用いるのは国訓なのである。

 では、「はたけ」を意味する「畑」という字はどこから来たのだろうか? 実はどこから来たのでもなく、日本で作られたのである。国訓がさらに進むと、このように日本で勝手に漢字をつくることが行われる。これを「国字」という。「国字」はやはり動植物名に多い。寿司屋の湯のみにずらっと並んでいる魚の名前には、「鰯(いわし)」など、かなりの国字が含まれているらしい。中国は海の魚には縁が薄い。もちろん長い海岸線はあるが、広大な国土からみれば、冷凍技術のない時代に海の魚が食べられた地域は一部に限られ、魚といえば淡水魚が中心になる。淡水魚は寄生虫が多いので生では食べず、熱を加えて食べることが多い。植物相も日本は独自性が強いので、「栃」や「樫」などの木の名前にも国字が多い。「柏」や「椿」は国字ではないが、中国でさす木とはそれぞれ別の種類の木をさしており、国訓といえる。

 国字は地形をさす言葉を示す字にも多い。「峠」などは傑作といえよう。侍の正装だった「裃(かみしも)」も国字である。ところで私は学生時代に垰さんという家に下宿していたことがある。「たお」とよむ。郵便屋さんが「とうげさん、のぶたさんていらっしゃいますか?」といって入ってきたので、両方訂正しながら苦笑したことがある。垰さんは広島の出身である。広島カープの試合や甲子園で広島の高校が出ると夫婦そろって熱狂的に応援していたのを覚えている。中国地方ではとうげのことを「たお」という。「垰」はいわば方言文字といってよい。なお、私は「峠野」と書いて「たおの」とよむ人にもあったことがある。

 国字は日本人らしい洒落のセンスを示すことが多い。辷(すべ)るや辿(たど)るなど、なるほどと思わせる。この調子なら、(エレベーターガール)、(ホットドッグ)など、作ろうと思えばこれからも国字はどんどん作れそうである。

 国字は日本で作られた文字なので、当然のことながら音読みがない。中国では日本人の名前は中国語よみされる。「鈴木」さんは「リンムー」、「山田」さんは「シャンティエン」という具合である。その代わり自分たちの名前が日本語よみされても文句は言わない。これに対して、韓国・朝鮮の場合は、日本人の名前をハングルで「スジュキ(ズの音がないため)」「ヤマダ」と書くため、自分たちの名前にも本国語よみを求める。相互主義といえるが、中国の場合、外国語の音声を取りこみにくい言語であること、漢字がもともと自分たちのものであるから、日本人がそれをどう読もうと頓着しないという面もあるのだろう。ところで、国字で書かれる「畑」さんは中国ではどう呼ばれるのだろう? この場合は火へんを無視して「田」と同じ「ティエン」で呼ぶほか仕方がない。「辻」さんの場合もしんにょうを無視して「シー」と読むことになる。国字の中で音読みのある唯一の例外は「働」という字である。にんべんを無視して「どう」と読んでいるが、この音読みも和製である。中国では「働」の字は「動」で示される。「労働」も「労動」と書く。

 国字は日本だけのものではない。ベトナムの場合、これは「チュノム」と呼ばれてたいへん数が多いのだが、ベトナム語自体いまでは「クォックグー」というアルファベットで記されているので、正確には「あった」というほかはない。朝鮮にもさほど多くはないが「国字」はある。という字は「トル」と読むが、これは「石」を示す固有語であり、人名によく用いられる。「はたけ」はそのまま「田」の字で示され、「た」を示すためにという「国字」が別に作られている。これは日本とは逆で面白い。このような例を考えると、「国字」という言い方はあまりにも視野を日本の中に限定しすぎなので、「和製漢字」などの別の表現を考えた方がいい。


表紙へ


inserted by FC2 system