「こわい」という言葉

 日本語の形容詞は大きく二つに分けられる。「私は」に続いたときと「あの人は」に続いたときとで意味が変わらない言葉と意味が変わる言葉である。「私は細い」でも、「あの人は細い」でもともに痩せているということである。これに対して、「私は怖い」と「あの人は怖い」とでは意味が変わってくる。「私は怖い」は自分が恐ろしい気持ちになっていることの表現だが、「あの人は怖い」の場合は、その人が人に怖いという印象を与える人だということを意味する。「私が怖い」と同じ意味で「あの人」がおびえているのだとしたら、「あの人は怖がっている」というか、「怖い」という言葉を使うとしても、「あの人は怖いのだ」とでもいうべきであろう。まして、同じ意味で「あんたは怖い」と言うのはますます変で、「そんなことお前に分かるか!」と言われそうである。「あんたは怖い」というのは、相手に対する自分の恐怖を示す表現であるのが普通である。もっとも本当に相手が怖いのなら、そんなことは面と向って言えないので、冗談で言うことが多いようである。

 「怖い」のように本来は自分の感情を表す表現を他人に対して使った場合は、その人の感情を示すのではなく、その人が他人にそのような感情を起こさせるような人であることを意味している。この転化には、さらにもうひとひねりが加わることもある。古語で「はづかしき人」というと、「みっともないことをする人」ではなく、「りっぱな人」という意味になることがある。これは、その人の前にいると自分の方がはずかしくなるという感覚から生じた表現である。

 以上の例からわかるように、自分以外の人の感情を表現するには、形容詞をつかうより、形容詞の語幹に「がる」がついた「怖がる」のような表現を用いたほうが無難である。同様に、動詞に形容詞型の助動詞「たい」がついたときも、他人の感情を表現するときには、動詞型の助動詞「たがる」を用いたほうがいい。「僕は水が飲みたい」は問題ないが、「あの人は水が飲みたい」はあとに「のだ」とか「らしい」でもつけないと変であり、「あの人は水を飲みたがっている」というべきであろう。この場合、「水を飲みたがる」でも少し変な感じがする。「~したい」というのは、「怖い」や「うれしい」と同様、状態を示すことばなので、「~している」という表現が望ましい。「あの子は母親に似る」「私はあなたを知る」を「似ている」「知っている」としたほうが自然なのと同じ理屈である。

 話題はかわるが、「水を飲みたがっている」を「水が飲みたがっている」としたら変であるが、「水が飲みたい」を「水を飲みたい」といいかえても今では少しも変な感じがしない。「水が飲みたい」といっても、水という怪物(?)が何かを飲みたがっているわけではない。「たい」をつけて自然なのは主格が「私」である場合に限るのだから、「水が」といっても「水を」という意味だということがすぐ分かる。このような場合の「が」は、主格ではなく対象格とよばれ、「を」と置き換え可能だとされるが、私は少し違うように思う。たとえば「僕は君が好きだ」と「僕は君を好きだ」はどっちが自然な感じがするだろう? 私は「が」のほうが自然な感じがする。「好きだ」はいわゆる形容動詞であるが、意味的には形容詞といっていい。しかし、動詞の場合とちがって形容詞的なものにつなげるのに「を」は不自然である。「僕は君を恋しい」ならますます変な感じである。

 このように考えてくると、私にはやはり「水が飲みたい」のほうが「水を飲みたい」より自然な感じがするのだが、それではなぜ「水を飲みたい」という表現が出てくるのであろうか? 「たい」の前には、「食べたい」「走りたい」「眠りたい」というように、自分がしたい動作が入る。「食べる」や「飲む」のような対象のある動詞の場合は、その内容をさらに細かくいうために対象をも含めて「たい」をつけたいという気持ちがおこる。つまり、「水を飲みたい」は「水を飲み/たい」と切るべきなのだと思う。これにたいして、「水が飲みたい」の場合は、「君が好きだ」が「君が/好きだ」と切れるのと同様、「水が/飲みたい」と切るべきであると思う。

 しかし、上に述べたことがすべて当てはまるわけではない。のっぴきならぬ関係に陥った相手には「話をつけたい」というべきで、「話がつけたい」はどう考えても変である。また、主格でも対象格でもない場合、「パリ(へ)に行きたい」のように言うのであって、「が」も「を」も用いることはできない。この場合、「パリに/行きたい」なのか、「パリに行き/たい」なのかはどっちとも言えるように思う。

「こわい」という言葉は、共通語では恐ろしいという意味である。しかし、東北や北海道では「疲れた」という意味であり、「恐ろしい」に当たる普通の言葉は「おっかない」である。いっぽう、昔へっつい(かまど)で御飯を炊いていたころに釜の底でこげた御飯を「おこわ」といったが、これは「固くなった部分」ということである。ゴワゴワという擬態語もあるように、「こわし」という言葉は本来「固い」ことを意味する。恐ろしいときも疲れたときも体が固くなるために、「恐ろしい」「疲れた」という意味に転じたのであろう。


表紙へ


inserted by FC2 system