万葉集は朝鮮語か?

 いきなり結論を出すが、万葉集は日本語である。朝鮮語(=韓国語)ではない。こんな当たり前のことをなぜ言うかというと、万葉集を朝鮮語で解釈する「人麻呂の暗号(藤村由加)」「もう一つの万葉集(李寧煕)」「日本語の悲劇(朴炳植)」といったトンデモ本が大手出版社から相次いで出版され、ベストセラーになった時期があったからである。

 まだ仮名のなかった時代に書かれた万葉集が漢字を音訓とりまぜてさまざまに用いた表記法(万葉仮名)で書かれていることは周知の通りである。したがってまだ未解読の歌もある。しかし、それは約4500首ある万葉集のうち、数十首にすぎない。他の歌は日本語で無理なく解釈できるのである。さきの三著は未解読の歌があるということを針小棒大にとりあげ、それを朝鮮語で解いたと喧伝しているのであるが、その数は逆に数十首にすぎない。また、その方法も、現代朝鮮語、日本語の方言まで持ち出して、あの言葉とこの言葉が似ているという例を思いつきのように羅列しているにすぎない。個々の事例をいくら並べても、音韻の対応に規則性がなければ、何の意味もないという常識すら踏まえていないのである。

 朝鮮語を学習すると、不思議なことがある。やさしい文章ほど難しく、難しい文章ほどやさしいのである。朝鮮語も日本語と同じように、固有語と漢語が半々であり、難しい文章になるほど漢語の比率が高まるという点も同じである。漢語はもとが同じであるから、はじめて出会う語であっても分かることがある。たとえば、「パルタル」という語を知らなかったとしても、朝鮮漢語のp音は日本漢語のh音に対応し、音節末の「ル」が日本漢語では「ツ」か「チ」になるということを知っていれば、すぐに「発達」のことだと分かるのである。ところが、両言語の固有語どうしはまったく似ておらず、このような手がかりがない。朝鮮語のやさしい文章ほど固有語が多いので、日本人にとっては難しくなるのである。

 万葉集は今からたかだか1200年余り昔の歌集である。この程度の期間では、基本的な語彙はそれほど変わるものではない。万葉集よりさらに500年近く古い魏志倭人伝の倭人語ですら、容易に日本語で解釈できるのである。倭人伝には、今の壱岐の島にあったと思われる国の長官が「卑狗(ひこ)」、次官が「卑奴母離(ひなもり)」と呼ばれていたと記してあるが、長官が「彦」、次官が「鄙守」であることは容易に分かる。今日のフランス語、イタリア語、スペイン語、ルーマニア語などは、古代ローマ帝国の公用語だったラテン語の方言から分化したものである。分化の時期は万葉集の時代より古いぐらいだが、これらの言語の間で、似た言葉をさがすのは誰にでも容易である。英語とドイツ語が別れたのは、ラテン語の分化よりさらに古いが、音と音の間の対応関係は実にはっきりしている。これに対して、1200年余り前の日本語と朝鮮半島の言語は当時からすでに別々の言語だったと考えないと、今日両言語の基礎語彙がこれほど違うということは説明できない。万葉集の中でも「やま」は「やま」であり、「ゆき」は「ゆき」であって現代日本語と何の変わりもなく、わざわざ朝鮮語を持ち出すには及ばない。なお、朝鮮語では山は古くは「モイ」(現代語では漢語の「サン」)、雪は「ヌーン」という。

 私は、古代の日本が形成されるにあたって、古代朝鮮からの渡来人が果たした役割は極めて大きなものだったと考えている。「~は中国から朝鮮半島を通って伝わった」という決まり文句はごまかしであり、日本が中国文化を身につけたのは、せっせと朝鮮文化を輸入した結果だと思っている。何度もの失敗ののちにようやく日本に渡来した鑑真の例を見れば分かるように、中国から日本に来るのは大変なことであり、渡来人の大半が朝鮮半島の人々だったことは言うまでもない。しかし、言語に関しては別である。古代における朝鮮の役割が大きいことを広く日本人に知ってもらいたいからこそ、万葉集は朝鮮語だなどというような、すぐ揚げ足をとられるような俗説はやめてほしいのである。

 百済が滅亡したとき、亡命者の多くが日本に渡ってきたとたんに高官に任じられたという例は多いが、これは当時の宮廷で朝鮮語が話されていたことの証拠にはならない。現代でも、日産のゴーン氏のように、会社の再建のために外国人の社長が招かれるという例はある。Jリーグの監督など、外国人は珍しくない。当時は、宮廷の中に通訳のできる人がたくさんいたと考えれば、言葉の面での不自由はさほど無かったと思われる。なお、古代の朝鮮半島の言語は一様ではない。現代朝鮮語につながる古代朝鮮語というのは新羅語だが、百済や高句麗ではこれとも違う言語が話されていた可能性が高く、単一の朝鮮語が日本で普及したと考えるのには無理がある。

 ただ、当時漢字を使いこなせた人のほとんどが渡来人であったことは確かであり、日本語を漢字で表記する方法としての万葉仮名を考えたのも渡来人であろう。万葉仮名の使い方は、漢字で朝鮮語を表記した新羅の「郷札(ヒャンチャル)」という方法に酷似している。しかし、日本語の発音が単純であるため、万葉仮名が仮名へと進んだのに対し、より発音体系の複雑な朝鮮語を表記する郷札はやたらと難解なものとなり、すたれていった。それ以後、朝鮮では会話は朝鮮語で行う一方で文章は漢文で書くようになったため、古い朝鮮語の語彙は研究者の努力にもかかわらず、二百語程度しか集まっていないことも知っておいてほしい。朝鮮語を示す「吏読(イドゥ、りとう)」という方法もあったが、これは漢文の所々に朝鮮語のてにをはを特定の漢字で挿入するもので、「郷札」のような本格的な朝鮮語表記とは異なっている。

朝鮮の漢文 朝鮮の漢文訓読は、返り点を用いない。「有朋自遠方来、不亦楽乎」を日本の漢文は「ともありえんぽうよりきたる、またたのしからずや」と読むが、朝鮮漢文では、「朋」「来」「乎」のあとにハングルで付属語を書き、そのままの順に読んだ。ハングルが作られる以前には付属語と似た音の漢字を横に小さく書いた。日本語にあてはめれば、「ユウホウがジエンポウライならばフエキラクコじゃのう」という感じである。
 このような訓読の仕方から、「不可不」(必ず)、「甚至於」(甚だしきは)、「于先」(まず)といった語が朝鮮語に入った。日本漢文では「~せざるべからず」「はなはだしきは~にいたる」「さきに」というような読み方をしたので、このような漢語は考えられない。

 日朝両語の同系説を唱える日本人には、むしろ朝鮮語をよく知らず、比較言語学の方法にも疎い人が多い。かつて同系説を唱えていた大野晋氏は、南インドのタミール語との同系説にあっさり転向した。戦前、朝鮮語を深く研究した日本人学者に小倉進平、河野六郎という人がいたが、いずれも同系説には手を出さなかった。その点は日本語をよく知っている韓国の学者も同じである。さきの三著が猛威をふるっていたころ、週刊朝日の取材を受けた韓国言語学会の重鎮李基文(イ・ギムン)氏は日本語で即座につぎのように答えたという。「また、そんな本が出たんですか? 日本はお金持ちですからね。万葉集は日本語に決まってますよ。ワッハッハ」。李氏が「また」といったのは、言語学の方法に暗い安田徳太郎という医学博士がヒマラヤ山中の小国シッキムのレプチャ語との同系説を唱え、ベストセラーになった過去を知っているからである。この安田氏の著書ではレプチャ人の写真を載せ、日本人そっくりという印象を強めていたが、なにもレプチャ人に限らず、同じモンゴロイドなのだから似ているのは当たり前である。たとえば、ドイツ人がフランス人の写真を見て、「ドイツ人そっくり!」などといって驚くだろうか?

 最後に万葉集から山上憶良の有名な歌を一首読み方とともに示しておきたい。万葉仮名の白文で万葉集を読んだことのある人は少ない。だから、こんな愚にもつかない説にだまされるのだが、どう見ても、これを日本語以外で読むのは無理である。

 銀母 金母玉母 奈爾世武爾 麻佐礼留多可良 古爾斯迦米夜母
しろがねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも


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