「長靴」と「長い靴」の違い

 子供のころ、雨が降るとよくブカブカの長靴を履いて登校した。まだ、舗装の行き届いていない時代だったので、道のところどころに出来た水たまりに集まるアメンボをかまったりしていた。最近、長靴という言葉をあまり聞かない。ブーツという。おしゃれなブーツは、長靴とは呼びにくいということもあるのだろう。「長靴」という言葉は、普段はそんな言葉を使わない若者にもすぐ分かる。しかし、「ブーツ」という言葉は、初めて聞く年寄りにはぴんと来ない。手がかりがなく呆然とするその時の年寄りの気持ちを若者に追体験させるには、「ゲタ」と「アシダ」と「セッタ」はどう違うかと聞いてみればよい。漢字で「下駄」「足駄」「雪駄」と書いても、その違いは分からないに違いない。

 英語で長靴を「ロング・シューズ」とは言わない。「ブーツ」という全然形の違う言葉を用いるのは、西欧人にとって靴が身近なものだからである。同じことが日本の「ゲタ」「アシダ」「セッタ」についても言える。水牛という動物は、日本人には縁遠い。しかし、「水牛」という漢字を見れば、牛に近い動物で水の多いところに住んでいるのだろうという想像はつく。水牛がありふれているインドでは、水牛は牛とはまったく形の違う言葉で表現される。牛を神聖視して食べないインド人が水牛は食べると聞くと日本人は奇異な感じを受けるが、これは「水牛」という字面から牛の一種と思っているからである。

 ブーツを履きなれた若者にとって、「ナガグツ」という言葉は長ったらしく感じられるだろう。しかし、すべての言葉がこの調子でまったく新しく作られるとしたら、私たちはたいへんな記憶の負担を強いられることになる。カブトムシ、クワガタムシ、カミキリムシといった虫を「ムシ」という共通の語根のない別々の言葉で表現した場合を考えてみれば、そのたいへんさが分かる。魚をあまり食べない民族にとって、「アジ」「イワシ」「サンマ」を区別するのは難しいだろう。世界のどの言語でも、すでにある言葉を組み合わせて新しい言葉を作ることが行われている。しかし、こうして新しくできた言葉は、タヌキがアライグマでもイヌでもないように、もとのどちらの言葉とも違う意味を表している。

 つぎに問題にしたいことは、こうしてできた言葉が、その構成要素となった言葉のどれとも違う言葉だということをどうやって保障するかという問題である。たとえば、「長い靴」と「長靴」とはどう違うのだろうか? ジャイアント馬場が履く靴などは普通「大きい靴」というかも知れない。しかし、ピエロが履くような不自然に長い靴は「長い靴」というほかないだろう。そして、それ以外にも「長い靴」と呼ばれる靴はいろいろあるに違いない。しかし、それが「長靴」のことではないことは、言葉の形ではっきり示されている。英語ではこの違いが、アクセントによって示される。black birdと二語にして両方にアクセントを置けば広く「黒い鳥」のことだが、blackbirdと一語にしてblackにのみアクセントを置けば、ツグミに近い特定の種の鳥をさす。英語では2音節の語には1ヶ所しかアクセントがない。3音節以上になると第二アクセントが置かれるが、第一アクセントとは強さが違う。lighthouse keeperといえば灯台守であり、light housekeeperといえば体重の軽い家政婦という意味になる。日本語には、このように一語であるのか、二語以上であるのかを区別する方法が豊富にある。

 「長靴」に戻って「長い靴」との違いを考えてみよう。日本語の形容詞は、語幹の独立性が強い。猛烈な悪臭に出会ったときには「くさーっ!」と鼻をつまんで「い」をつけることはない。あやうく車に轢かれそうになったときには、思わず「こわーっ!」と胸をなでおろすだろう。太古の日本語では、形容詞はこのような形で述語として用いられるほか、「高天原(たかまがはら←たかあまがはら)」のようにじかに名詞にかかっていたようである。しかし、これでは「長靴」と「長い靴」の区別はつかない。形容詞の語尾はこのような区別をする必要から生まれたものと思われる。今日、形容詞の語幹が直接名詞につくときは、「長靴」のように新たに一語を形成するときに限られる。こうして「甘酒」と「甘い酒」の区別がつくようになったのである。この違いは、名詞を動詞の連用形に続けるか、連体形に続けるかの違いにも似ている。「焼き物」といえば陶磁器のことだが、「焼く物」といえば燃える物なら何でもあてはまり、具体的に何をさすかはその時々である。

 つぎに、「長靴」の「靴」が「くつ」でなく「ぐつ」となっていることが気になる。太古の日本語には、濁音で始まる語はなかった。したがって、複合語をつくったとき、あとの語根の最初を濁らせることで語としての一体感を高められたのである。このような濁りを「連濁」といい、「花笠」「灰皿」「「三日月」「石橋」など例に事欠かない。いわゆる半濁音を用いた「出っ腹(でっぱら)」のような言葉の作り方もある。ハ行音の場合は、「藤原」のように「わ」となる場合もあるが、いずれも連濁と同じ効果を持つ。連濁は、「帰り仕度」や「竹細工」のように、漢語系の言葉にも起こることがある。しかし、漢語の場合は、一字一字では意味がとれないこともあり、もとの漢字を思い浮かべるのを容易にするために、このような現象が起きないことの方が多い。そのため「支配」「作品」のように、和語では語中に現われないH音が頻繁に語中に現われる。

 「観音」や「反応」などの「連声(れんじょう)」も連濁と同じ効果を発揮する。「月立ち」が「ついたち」、「髪挿し」が「かんざし」、「若人」が「わこうど」、「取り組み合い」が「とっくみあい」になるのは、動詞で起こる音便と同じ現象だが、これも語の一体性を強める。漢語で「学校」が「がくこう」ではなく「がっこう」となるのも、これと同じことである。「咲いている」が「咲いてる」、「やっておく」が「やっとく」、「食べてしまう」が「たべちゃう」というような簡便な形への変化を見ると、述語部分の文法的な考え方にも再検討の余地があるように思われる。

 アクセントも、語の一体性を強める。共通語のアクセントでは、一度音が低くなると一つの語の中では二度と高くなることはない。たとえば、「山口」というのは、地名にせよ苗字にせよ、高音を●、低音を○で表現すると「○●○○」、「県」は「●○」だが、「山口県」は「○●●●○○」となる。これを「○●○○●○」というと、「山口ケン」という人の名前になってしまう。

 日本語では、このようにもとの言葉の意味を生かして新しい言葉を作る手段がさまざまに発達している。その造語力を現代日本人が十分に使いこなしていないのは残念なことだと思う。ただ、このような造語法は必ずしも一貫していない。たとえば、連濁は常に起こるとは限らない。そのため「中島」という人に会うと、「なかじま」なのか「なかしま」なのか一々本人に確かめなければならない。学生時代、私の知っている「中島」という人物を広島県出身の友人が「なかしま(○●○○)」というので、誰のことか一瞬分からなかった記憶が私にはある。「中島」は、近畿以東では「なかじま」中国・四国・九州地方では「なかしま」とよむ。「山崎」の清濁の分布もこれとぴったり一致する。


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