約4500首もある『万葉集』の第1首は、若菜をつむ少女に「家聞かな名のらさね」と尋ねる雄略天皇の歌である。おそらくは作者を特定できない民謡で、「家はどこ? 名前は何?」と尋ねているのである。当時、男性が女性に名を尋ねて答えれば、身を任せるのに同意したことになるのだという。強いていえば、携帯の電話番号を教えるようなものである。 名前といっても、日本人の場合、苗字と下の名前がある。苗字でよばれることはしょっちゅうだが、下の名前で呼ばれる相手は限られている。家族を除けば、ごく親しい友人ぐらいのものだろう。ところが、家族の中でも、いわゆる尊属は名前では呼びにくい。尊属に対しては「おじいさん」「おばあさん」「おとうさん」「おかあさん」「おにいさん」「おねえさん」と呼び、名前で呼ぶのは卑属に対する場合に限るのが一般的である。欧米では「きょうだい(兄弟に限らず「はらから」の意味で)」は名前で呼び合うのが当然であり、夫婦間でもそうである。もっとも、目上年上の場合、少なくとも初めからファースト・ネームで呼ぶのはためらわれ、ミスターなどの敬称を姓につけて呼ぶようである。下の名前で呼ぶこと自体が打ち解けた関係であることを示すので、下の名前に敬称をつけることは普通は行われない。漢文を読むと、最初の人物紹介で名は何、字(あざな)は何と記されていることが多い。昔の中国では、名で呼ばれるのは目上の人からに限られ、それ以外の人からは、別に字で呼ぶのが普通であった。 若い夫婦が名前を呼び捨てで呼び合う例は最近ではよく聞く。しかし、両親や祖父母、あるいはおじさん、おばさんを名前にさん付けで呼ぶのは難しい。だが、この点は欧米も同じことで、日本の特徴は、弟妹から兄姉や呼ぶときや、夫婦の間で呼び合うとき、下の名前で呼ぶことは難しいという点にありそうである。そのくせ「よそ」の人に対して自分の父母のことを言うときには、「おとうさん」「おかあさん」と言ってはならず、「父」「母」という。「山本君が弟に本を」と家族に近づく場合は「くれた」というが、「弟が山本君に本を」と遠ざかる場合には「やった」となる。「よそ」の人が目上の場合は「下さった」「差し上げた」と敬語を用いるが、この言い分けは崩さない。「小林君が山本君に本を」のように近づきも遠ざかりもしない場合は「やった」であろう。日本人にはなんでもないこの言い分けが多くの外国人には難しい。 さて、問題は夫婦の場合である。名前で呼び合っていた友だち夫婦でも、子供が生まれるととたんに「おとうさん」「おかあさん」となる。同居の祖父母がいる場合は、それも「おじいさん」「おばあさん」に昇格する。弟妹ができれば上の子は、両親や祖父母からも「おにいちゃん」「おねえちゃん」と呼ばれるようになるケースが多い。最も小さい子にあわせ、兄姉にはそれなりの自覚を促すのだともとれるが、なぜこのような表現が生まれたのだろうか? やはり根源は夫婦の間で互いを呼ぶ上でいちばん無難だということにあるように思われる。「おとうさん」「おかあさん」でなければ何と呼ぶのだろうか? 「あなた」と「おまえ(あるいは名前)」では、今の若奥さんは納得すまい。「おとうさん」「おかあさん」が無難なのは、互いに敬意をこめて呼び合うことになるからである。 鈴木孝夫氏の『ことばと文化』(岩波新書)には、電車の中で空席を見つけた祖母が母親(自分の娘!)を「おかあさん、ここ、ここ!」と呼び寄せる話が出てくる。言われてみればおかしいが、ふだん気にもとめないだけで、どこにでもありそうな話で、日本人には少しもおかしくないことだが、不思議に思う外国人も多いであろう。 家族内で他人(単に自分以外の人という意味で)を呼ぶときの配慮は、会社内など、外の世界でも適用される。課長から部長へは「部長」と呼べるが部長から課長を「課長」とは呼びにくい。取引先などから部長への電話の取次ぎを頼まれた課長は「部長は今いらっしゃいません」とは言わず、「渡辺は今、席を外しております」というだろう。だからといって「課長」が部長を「渡辺」などと呼び捨てにするのは辞表を懐に入れなければ言えず、「渡辺さん」とさえも言えない。 |