日本語は「二重言語」か?

石川九楊著『二重言語国家・日本』を読んで

 『二重言語国家・日本』(NHKブックス)という本を読んだ。著者の石川九楊氏は書道家ということである。初め、この本の表題を読んだとき、「二重」が「言語」にかかるのか、「国家」にかかるのかが気になった。「2種類の言語が行なわれている国家」という意味だとすれば、まず、植民地支配を受けた国々が思い浮かぶ。そういった国々では、地元の言語と旧宗主国の言語とが二重に行なわれ、学校教育も、初等教育と高等教育とでは別々の言語で行われている例が多い。そして、旧宗主国の言語は、公的な場面で今も幅を利かしている。ほとんど日本語だけで社会生活が営まれている日本は、このような意味では二重言語国家とはとても言えない。

 しかし、石川氏のいう「二重言語国家」とは、「二つの言語が並行して行なわれている国家」という意味ではなく、日本語そのものが二重言語であり、そのような言語によって営まれている国家という意味だと考えられる。

 「春雨来る」という文字は、和語を示すものとして「はるさめくる」と読むことも出来れば、漢語を示すものとして「しゅんうきたる」と読むこともできる、と石川氏は言う。。漢字を介して和語と漢語が背中合わせになっているという意味で、日本語は二重言語だというのである。しかし、「しゅんうきたる」は、明らかに書き言葉である。会話において、このような表現をすることは、まず考えられない。そして、話し言葉と書き言葉とが二重になっているということは、何も日本語に限らない。日本語を「二重言語」と呼びたいのであれば、書き言葉のみならず話し言葉までそうだということを証明しなければならないのだが、石川氏の論拠は、意図して作ったような例しか見当たらない。

 たとえば、石川氏は、「教育長にコーエンを頼みにゆく」というので、どんな講演かと思っていたら、「後援」のことだったというようなことが「日常茶飯事」(p.48)だとして、話し言葉も漢字の裏付けなしには日本語では成り立たないということを、自説の論拠にしようとしている。しかし、本当にこんなことが日常茶飯事とまで言えるかどうかは、はなはだ疑問である。私はかなり難しい内容の講演会などのテープ起こしをしたことが何度もある。しかし、どう文字で書いたらよいか最後まで分からなかったというような記憶は思い浮かばない。そういう経験がなくても、こういった言葉の行き違いが毎日のようにあるかどうかを考えてみれば、「日常茶飯事」というのには誰しも首をかしげざるをえないと思う。

 どんな言語でも、書き言葉をそのまま用いれば、「それどういう意味か」ということで会話が中断されることはありうることである。昔、アメリカ旅行をしたとき、車内に intoxicant を飲むなという掲示があった。また、運転中に operator に話しかけるなという掲示もあった。初めて聞いた intoxicant という語を辞書で引いてみると「酩酊物」とある。要するに酒類の総称らしい。operator が運転手のことであることはすぐ分かった。普通は driver というであろう。 intoxicant は wine とか alcohol とか言えばすぐに通じるだろう。どちらも完全な書き言葉なのであり、会話で用いたら変な奴だと思われることは間違いない。

 外来語が多いことが何も日本語に限った現象ではないことは、石川氏も認めている。しかし、 「ヨーロッパ語におけるギリシア語・ラテン語的位置をもつにもかかわらず、単なる古層にとどまるギリシア語・ラテン語とは異なり、古層であると同時に同時代層(現役)であるという特異な意味をもつのである」(p.150)として、日本語の漢語はこれとは違うとしている。英語などにおいて、古典ギリシャ語やラテン語は少しも古層ではない。operator も intoxicant も、共にラテン語系の言葉として現役である。話し言葉に用いられる wine ですら実はラテン語起源であり、alcohol にいたっては、アラビア語から入ったことばである。「『漢語』というものは、単にかつて、古代中国から学んだ言葉であるというにとどまらず、その祖国であるところの隣国・中国の政治や思想、学問の言葉そのものに対して同時的に、開かれている構造をもっている」(同頁)という点も、そのまま今の英語の構造にもあてはまる。日本語が「テレビ」として受け容れた television も、tele はギリシャ語、vision はラテン語起源であり、新たに身近になった事物をも、古典語によって命名するということが今でも普通に行なわれている以上、ギリシャ語やラテン語が英語において古層だなどとはとても言えないことである。英語圏と日本との違いは、むしろ、古典語を新たな事物に生かすということが英語圏においては今も普通に行なわれているのに対して、日本では telephone (これは phone までギリシャ語)を「電話」と訳した先人の機知を継ごうという意欲が失われていることである。ちなみに、中国では、 television を「電視」と訳し、インターネットを「電網」と訳すようなことが今も普通に行なわれている。

 世界の言語を見渡してみれば、日本語だけが「二重言語」だという石川氏の所説は成り立たない。タイ語でサンスクリット、パーリ語起源の語が、トルコ語でアラビア語、ペルシャ語起源の語が語彙の多くを占めるなど、古く取り入れた語が定着し、新たな造語を生み出すという形で現役で活躍しているということは、世界の言語の中ではごく普通のことである。世界中のすべての言語は、二重言語どころか多重言語だと言ってもよい。

 「言語と書とは二つの分明な記号体系である。後者の唯一の存在理由は、前者を表記することだ」というソシュールの所説を石川氏は批判し(p.14)、書を言語に内在的なものだとする。ソシュールの所説の後半に対する批判には私も同意したい。しかし、前半については、ソシュールは批判しようもない当り前のことを言っているのであり、「文字は言語に内在的である」という石川氏の主張は、話し言葉と書き言葉とを混同したものだと私には思える。人間は、言葉によって人間となったということは、古今東西を問わずあてはまる。文字を持たない文化というものは、この地球上にいくらでもあったが、話し言葉をもたない文化というものは、この地球上にあったためしがない。そこから、話し言葉こそ言語の本来の姿だというソシュールの主張も出てくるのであろうが、だからといって書き言葉がどうでもいいものだとは言えない。それは、人類のすべてがかつて狩猟採集生活をしていたからといって、農業やまして近代産業がどうでもいいものだとは言えないのと同じことである。書き言葉は、人類の歴史の中で生まれるべくして生まれたものであり、狩猟採集生活に戻ることができないのと同様、今さら文字を捨てることなど出来ないのである。文字がなければ、人類が知恵や知識を今ほど蓄積することはとてもできなかったであろう。

「話す」ということは、人間が生きるために行なう行為の一つである。相手に対し自分の気持ちを示すには、言葉を話す他にも、殴るとか抱きしめるとかいろいろな方法がある。殴ったり抱きしめたりすることがその場かぎりの行為であるのと同様、話すということもその場かぎりの行為であり、当事者の記憶の他にはその場限りで姿を消してしまうものである。「書く」ということは、それとは異なる。書かれたものは、いつまでも後に残り、書いた本人が読みなおすこともあれば、遠いところの人、後の時代の人の目にふれることもある。それだけに、話し言葉と書き言葉とがさまざまな点で異なってくるのは当然である。しかし、同じ人間が両者をともに身につける以上、話し言葉と書き言葉との間に相互に影響が生じるのは当然のことであり、ソシュールのように、書き言葉の与える影響だけを非難するのは筋違いだということができる。

 石川氏の言いたいことは、初めから漢字とともに日本語に入ってきた漢語だけでなく、和語までが漢字で書かれることで、漢語の支配下に入ったということであろう。「あしがはやい」と書くときに、「あし」が「足」なのか「脚」なのか、「はやい」が「早い」なのか「速い」なのかと迷うことは、一見石川氏の所説を裏付けるようにも思える。しかし、これは書き言葉として表現しようとするからこそ生じた迷いであるに過ぎず、話し言葉として「あし」とか「はやい」とかいう言葉を用いるときに、私たちが一々漢字を意識しているとは思えない。和語の漢字表記は、音韻構造が単純な日本語でかな表記すれば冗長になりがちであるために、書き言葉としての能率を求めたからであり、漢字の支配下に入ったということとは違う。本来は「おおね」と言った作物が漢字で「大根」と書かれたためにいつの間にか「だいこん」と言われるようになったような例は確かにあるが、文字が話し言葉に影響を与えることは、ソシュールがフランス語で本来「ヴァン」であった20という数が vingt と綴られるために「ヴァント」と言われるようになったということを非難しているように、アルファベットなどのいわゆる表音文字を用いる言語でもよくあることであり、程度の差こそあれ、本質的な差はない。

 書き言葉が権威を背景に話し言葉に影響を与えることはどこの言語でも多いことなのだが、実際には、話し言葉が書き言葉に与える影響の方がずっと大きい。ただ、あまりにも当たり前のことと考えられているので、人があまり意識しないということに過ぎない。こういったことを考えると、文字を持つすべての言語は二重言語なのであり、日本語だけを特別視するにはあたらない。

 石川氏の所説には、比較文化論としては興味深く納得させられるところもある。その結論は、むしろ二重言語であることを大事にしていこうということであり、その点では私も共感できる。しかし、さまざまな文化事象を言語と結びつけて論じるときには、こじつけと感じてしまうところが多すぎる。たとえば、「日本語の擬音・擬態語の多さは、おそらく文字への依存度が高まり、動詞の発達がとめられた時代以降に肥大化した」(p.154)と石川氏はとらえているが、これは、擬音・擬態語が流行りすたりが激しく、古い時代の擬音・擬態語の多くが失われているための錯覚にすぎないように思われる。糸をぴんと伸ばして「張る」ことと、ポスターなどを壁に「貼る」ことが「ぴんはる」「ぺたはる」という具合に話し言葉で分化しなかったことも、文字への依存のせいだと石川氏は言う(p.153)が、make や get など、英語の動詞の恐るべき多義性を考えると、とてもにわかには信じられない。「講演」と「後援」の取り違えに類することは、英語でもこのような多義性のために、同じ程度の頻度で起こっているはずである。

 言語に関しては、明白な誤りも多い。いわゆる孤立語が中国語だけであるかのような記述(p.27)があるが、孤立語は中国語以外にもタイ語、ベトナム語などいくらでもある。「漢字・漢文を使用し続けたために朝鮮語では中国語に近い発音が保存された」(p.33)というのも明白な誤りで、朝鮮語には古くから子音終止の音節があった。日本語のように簡単に仮名のような文字が生まれなかったのもそのためである。言語以外のところでも、西欧で「ナイフとフォークで食事するところから、対象を解剖、分析し、対象に傷をつけてでも核心を突く哲学をつくり上げた」(p.74)とあるのはいただけない。西欧でナイフとフォークの使用が一般化したのは、やっと18世紀のことで、それまでは手づかみで食事するのが一般的だったからである。

 また、石川氏は、「話し言葉における肉声には、書き言葉においては肉筆が対応する」(p.55)として、以下手書きの文字こそ本当の文字であり、キーボードでたたき出される文字はニセモノであるというようなことを述べている。いかにも書道家らしい意見だとも思うが、これはおかしい。話し言葉の場合、私たちは相手が話す音声を、その順序にしたがって聞き取らなければならないが、書き言葉の場合は、出来あがった文字を一挙に読んで意味を把握する。このことは、アルファベットについても当てはまることで、たとえば英米人は flower という語を一字一字読んでいるのではなく、分かち書きされた語全体を一挙に読んで理解しているのである。そうであれば、文字が手で書かれたか、キーボードでたたき出されたかの違いは意味を持たない。石川氏の所説は、書く側の立場でなされたものであろうが、普通に私たちが文字を書くことを日常の話し言葉とすれば、書道は歌のようなものに当るのであり、そこにこそ書道の芸術としての存在意義があるのだと考えてほしいと思う。      


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