「の」という助詞の用法

行く秋大和薬師寺上なるひとひら

 日本語では「の」という言葉をこのように繰り返して使うことができる。上に挙げた佐佐木信綱の短歌など、「上なる」という部分をも「上の」と変えることができるが、五七五七七にあわせ、単調さを避けるために「上なる」となっている。英語などでは動詞ぬきでは文が成立しないため、この歌を逐語訳しても意味をなさず、「文の体裁をなしていない」として鑑賞以前に切り捨てられてしまうであろう。

 「の」は、学校文法では「格助詞」の一つとなっている。「太郎が次郎と日曜日に公園で野球をした」「太郎より幼い次郎が東京から大阪へ一人で旅をした」の「が」「と」「に」「で」「を」「より」「から」「へ」のように、体言と文末(または副文の末尾)の用言とを結ぶものが多いが、「の」は体言と体言とを結ぶ点で異質であり、「花子の本」のような、ごく一般的な用法にしても、よく考えてみると、その中にさまざまな格が隠れている。

 「花子の本」は、「花子が書いた本」かも知れないし、「花子のことを書いた本」かも知れないし、「花子が持っている本」かも知れない。しかし、そんな区別を一々しなくても、意思の疎通が可能だというところに、言語の本質にかかわる問題が潜んでいる。

 私がパソコンをいじり出したころ、フロッピーディスクという、あんな小さなものに膨大な文章を収めることができることに驚いたが、逆に画像を保存しようとしたときには、その容量の小ささに驚いたものである。もともとデジタルなものである文字と違い、アナログな画像をデジタル化すると、情報量は格段に大きなものになる。ある公園の様子を「風が吹き、木の葉がそよぎ、鳥が鳴いていた」と言っただけでは、どんな風なのか、木の葉がどのようにそよいでいたのか、鳥がどのように鳴いていたのかはよく分からない。しかし、私たちは言葉からの限られた情報をもとに、その場の状況を想像し、かなりの程度まで再現することができる。なぜそれができるのか、といえば、私たちが生きているからである。

 生きていればさまざまな体験をすることができるし、そのような体験があればこそ、言葉という不完全な手段を通じても、意思を通わすことができる。「花子の本」なら迷うことはあっても「猫の本」なら迷うことはない。間違いなく「猫のことを書いた本」であろう。そのようなことが分かるのは、私たちが経験上、猫が本を書いたり持ったりすることがないことを知っているからである。生きている人間は、体験から得たさまざまな知識で言葉の不完全さを補っている。

 学生時代、「ウィルタ語」についての集中講義を受けたことがある。「ウィルタ」とはむかし「オロッコ」と呼ばれた民族で、大陸からサハリンにかけて住んでいる。ウィルタ語の話し手は千人単位でしか残っていない。このウィルタ語には日本語の「の」にあたる言葉が、「譲渡不可能」と「譲渡可能」の2種類がある。「私の腕」というときは「譲渡不可能」の「の」で、「私の獲物」(ウィルタは伝統的には狩猟民族である)というときは「譲渡可能」の「の」である。面白いことに「私のノミ」は「譲渡可能」、「私のシラミ」は「譲渡不可能」の「の」で表現する。ノミは人から人へと飛び移るが、シラミはこびりついて離れないからである。集中講義が終わってから、では「私の妻」は「譲渡可能」で、「私の母」は「譲渡不可能」なのかということを思いついたが、終わったあとなので、質問の機会を逃してしまった。ウィルタ語の講義は、外界の捉え方にはさまざまな可能性があるということを知ったという意味で面白かったが、かといって、このような区別をすべての言語がするべきだとは思わない。詳しすぎるのは時としてかえって不便である。移植治療が進んだ今、「私の心臓」はどっちの「の」を使えばいいのだろうか?

 よく英語などの欧米の言語を基準にして、日本語には単数・複数の区別がないから曖昧だなどという主張をする人がいるが、細かい区別があるために却って不便になることも多い。例えば、宝石店に泥棒が入って宝石がごっそり盗まれたとき、英語では泥棒が何人か分からないため、「一人の泥棒または二人以上の泥棒」というような表現をすることがある。単独犯だと分かっていても、泥棒が男か女か分からないときには「彼または彼女」と言わなければならない。


 「背の高い人」とも「背が高い人」ともいう。しかし、「の」は、「あの人は背の高い。」というふうには用いることはできず、この場合は「が」を用いる。「背の高い人」の場合に「の」が使えるのは、連体節の中だからである。「が」も、「鬼が島」という言葉が示すようにもとは「の」と近い言葉だったが、このような用法を経て、今日のように広く主格を示すのに用いられるようになった。博多弁などでは「の」も「が」と同じ道をたどり、「先生のいらっしゃった」という言い方をするが、面白いことに、「の」で主格を表現する方が、「が」で表現するより敬意が高い。なお、昔の日本語では、主格は「昔、男ありけり」のように、助詞を用いずに表わしていた。

 さらに「の」は「その大きいのがいいな」のように、名詞の役割を果たすこともある。英語のbig oneのoneにあたるといえる。このような用法は動詞や形容詞などで連体形が終止形の役割を兼ねるようになったことにより生じたもので、昔は「弱きを助け強きを挫く」「聞くも涙、語るも涙」「知らぬが仏」のように、連体形が「の」をはさまずに、そのまま助詞に続いていたものである。

 蕪村の「化けそうな傘かす寺の時雨かな」という句の中にある「の」など、ずいぶん奇抜な用法のように見える。「寺の時雨かな」を「寺に時雨ふる」としても意味はあまり変わらないようにも思うが、時雨も含めて一体化した不気味な雰囲気が分割されてしまう感じがする。日常の言語で冒頭の短歌のように「の」を連続させるようなことはあまり無いとは思うが、「の」の連続は、和歌や俳句を詠む人にとっては、読者を作者の詩情へと誘導する上で、たいへん効果的で便利な表現法となっている。
表紙へ

inserted by FC2 system