「菜の葉にあいたら」の意味

 「ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ、菜の葉にあいたら桜にとまれ。」関東で子供のころ、この童謡の「あいたら」という言葉の意味がどうにも分からなかった記憶がある。「あいたら」は、ときに漢字で「飽いたら」と書かれることもあったが、それなら「飽きたら」になるはずではないか、という疑問も感じた。関西の大学を受験したとき、高校の友人二人と一緒に宿をとった。われわれ三人だけの部屋と思っていると、北海道と九州の受験生が相次いで部屋に入ってきた。今の受験生には考えにくいことだろうが、旅館の一存で相部屋にさせられたのである。はじめはとまどったが、受験は三泊四日の長丁場だったので、いつの間にかうちとけあい、三晩目には五人でわいわい騒いで、最後の追いこみに必死だったふすま一枚をへだてた隣の部屋の受験生にどなりこまれたほどである。われわれも受験生である以上、気持ちは分かるのですぐ謝った。それより少し前の夕方、みんなで外出しようとすると雨が降りはじめた。すると九州の受験生が「傘、かってくる」と言ったので、私が、「そんなもの、買わなくても帳場で借りてきたらいいだろ」というと、けげんな顔をされた。

 現代日本語の動詞の活用の仕方は、変格活用とされる例外を除くと五段、上一段、下一段の三種類である。ところが、中には東西で活用の仕方が違う動詞がある。「飽きる」と「借りる」もその例である。東日本の「飽きる」「借りる」は否定をすると「飽きない」「借りない」となり、「ない」の前がイ段になるので上一段活用である。これに対し、西日本では「飽かぬ」「借らぬ」とア段になるので、その終止形は「飽く」「借る」となる。ところで、五段活用動詞は、「た」「て」などの前では音便形という形をとる。カ行、ガ行では「書いた」「騒いだ」のように「き」「ぎ」であるべきところが「い」となり、これをイ音便という。タ行、ラ行、ワ行(ワア行)では、「打った」「取った」「笑った」のように「ち」「り」「い」が小さい「っ」となり、これを促音便という。ナ行、バ行、マ行では「死んだ」「飛んだ」「読んだ」のように「に」「び」「み」が「ん」となり、これを撥音便という。撥音便とガ行のイ音便ではあとの「た」や「て」が濁る。サ行の場合は、「渡した」のように、五段活用でも音便形にはならない。こういうことを知っていれば、西日本では五段動詞である「飽く」や「借る」が「「飽いた」「借った」という音便形になるのが理解できる。しかし、音便形は五段活用動詞だけの現象であるから、上一段動詞である東日本の「飽きる」「借りる」には音便という現象は起きず、「飽きた」「借りた」となるのである。

 さて、ここで、「買う」も五段動詞であるという問題が生じる。したがって「笑った」と同様、「買いた」も「買った」と撥音便になる。では、西日本では「借った」と「買った」をどう区別するのであろうか? 実は西日本ではワ行の五段活用は撥音便ではなく、「笑(わろ)うた」「買(こ)うた」のように、東日本にはない音便形をとる。これをウ音便という。あるじが年をとって商売をやめてしまった家を「しもた屋」というが、これは「しまった家(店じまいした店)」ということである。受験宿での言葉の行き違いはこのようにして生じたのである。

 しかし、ウ音便は関東人にとっても、決してなじみのないものではない。「負うた子に教えられ」ということわざもあるし、「問う」の音便形で「問うた」はよく聞くが、「問った」は聞いたことがない。「しろひと→しろうと」「かりひと→かりゅうど」のような例もある。「うれしゅうございます」のように「ございます」に先立つ場合に限って形容詞の音便形が古くから「標準語」でも認められていたのだが、このような言い方は、デパートのエスカレーターで聞く「あぶのうございますので、手すりをお持ちください」などを除けばほとんど死語で、「うれしいです」で済む時代にさしかかっている。このような「~ございます」という言い方は、朝廷の東遷にともなう京都からの移住者の影響が考えられており、明らかに関西起源の表現である。しかし、関西でも、「うれしいて」という表現は聞くことがあるが、「うれしゅうて」というのはもうほとんど聞けなくなっている。

 大学以来関西に住んでいるが、やはりテレビ時代の影響であろうか、関西でも「飽きた」「借りた」のほうが普通になりつつある。それでも「飽いた」という表現は今もよく聞く。昔は関西弁こそ標準語だったのだから、古いことわざなどは西日本風であり、「虎の威を借る狐」とはいっても「虎の威を借りる狐」とは言わない。古文には「飽かず」という表現がさかんに出てくる。これは、意味の上でも「飽きないで」とはややずれていて、「飽く」は「満足する」の意味で用いられることが多い。「菜のはにあいたら」も「飽きたら」というよりは「満足したら」と解したほうがすっきり分かる気がする。

 日本語の動詞の活用型では五段動詞が圧倒的に多い。たとえば「行かむ」が「行かう」をへて「行こう」となったように、それまでなかったオ段が活用に加わったために五段とよばれるようになったが、昔は四段活用といった。上一段と下一段は昔は一部がウ段となる上二段と下二段であり、九州弁の「落つる」「見ゆる」などにその名残がみられる。四段活用は、昔から活用の主流派であり、五段活用となった今ではかつてのナ行変格、ラ行変格、下一段活用をも吸収している。今は五段活用の「恨む」「忍ぶ」も古くは上二段活用であった。論語の「人知らずしてうらみず」や「~するにしのびない」という表現を思い出されたい。「忍ぶ」の場合は、もともと四段活用だった「偲ぶ(古くは偲ふ)」と混線した結果でもある。

 しかし、動詞によっては、この主流派である四段(五段)活用からわざわざ外れる動詞が昔からしばしばあった。「飽きる」「借りる」が上一段になったのは、東日本で始まった。「足りる」もその例に入れられるが、これは東日本でもまだ完全には完了しておらず、「足りない」と「足らない」の間でゆれが見られる。しかし、慣用句などでは「舌足らず」のように五段で活用している。今は下一段活用である「忘れる」も、「忘らるる身をば思はず」という百人一首の歌(「忘れらるる」とはなっていない)からも分かるように、古くは四段活用であった。

 私たちは英語を習うとき、不規則動詞の変化をたくさん覚えなければならない。ドイツ語やフランス語ならなおさらである。これに比べれば、日本語の動詞活用には不規則性がきわめて少ない。そのために、上に述べたような例外が目立つだけの話である。同じく活用と呼ぶが、日本語の活用は、音が変わっても意味には影響がないという点で、ヨーロッパ諸語の活用(あるいは曲用)とは性格が異なっている。K音が抜けるイ音便などは動詞に限らず、「若き」が「若い」になったり、「月立ち」が「ついたち」になるなど、形容詞や名詞にも見られる。「一日」と書いて「ついたち」と読むのは、昔は太陰暦だったので、月がちらっと見え始めることをさす言葉であった。また、兵庫県の姫路から北に走る播但線沿線出身の知人は、「渡した」「探した」が「わたいた」、「さがいた」と音便にならないはずのサ行五段活用がイ音便になるが、このような現象は全国に点在するようである。すでに枕草子にも「まして」を「まいて」といっている例もある。五段(←四段)活用の中で、なぜサ行だけが音便にならなくなったのかはよく分からない。


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