人間の想像力が生み出した妖怪は数多いが、「おに」ほど日本のことわざや昔話に頻繁に出てくるものはない。「鬼」という字があり、音読みは「キ」、訓読みは「おに」ということになっており、「おに」は一見ヤマトコトバのように思えるが、どうもそうではないらしい。奈良時代の万葉集では、「鬼」は「もの」とよまれていた。口に出して言うのが恐ろしい超自然の存在を遠まわしに「もの」ということは、「もののけ」のように古くから行われていた。仏教の導入をめぐっ蘇我氏に破れた物部氏も何か宗教に関わることをしていた家柄らしく、仏教を排斥したのもそのためだと言われている 「おに」という言葉は、平安時代になるとさかんに使われるようになり、当時の庶民の息吹を伝える『今昔物語集』にも盛んに出てくる。ところが、その記述をよく読むと、今日思い浮かべられるような「おに」の姿に近いものはきわめて珍しく、多くはその姿についての記述がない。姿あるときも普通の男や女であったり、板や油瓶のような器物であったりする。器物がわけもなく動くのを「おに」の仕業としている。そういえば、ポルターガイストも具体的な姿は不明である。 平安時代の10世紀前半に成立した『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という辞書がある。漢文で漢語を説明しているのだが、それぞれの言葉に当たる和語を示しているのでこの名があり、一般に『和名抄』と略称される。この辞書には、「鬼」がつぎのように説明されている。「居偉反。和名於邇(おに)。或説に云はく、於邇とは隠の音の訛なり。鬼物隠にして形顕すを欲せず。故に以て称す」というのだから、「鬼」自身が姿をあらわすことを望まないのである。
ところで、『和名抄』は漢和辞典なのだから、中国における「鬼」もこれに近い意味だということになる。実際、「鬼気迫る」「鬼籍に入(い)る」といった表現は、「幽霊」のようなものと解釈しないとすっきりしない。「鬼気迫る」は「妖気漂う」に近い意味だし、「鬼籍に入る」は、「幽霊の戸籍に入る」ことだから、「死ぬ」ことである。中国の「鬼」も、「形顕すを欲せず」だったのだが、姿の分からないものに姿を与えたがる性向は人類共通である。しかし、「鬼」の字を見て中国人が思い浮かべる姿は、「おに」よりもむしろ「幽霊」に近いものなのである。日中戦争のとき、ある軍人が中国人が自分のことを「鬼将軍」と呼んでいると聞いて悦に入っていたということだが、実はその貧弱な体格と陰気な風貌をからかったものだった。また、わずか27歳で夭折した唐代の詩人、李賀(李長吉)は後世、李白の「天才」、白居易の「人才」との対比の上で、「鬼才」と称された。李賀の詩は言葉遣いはきらびやかだが、内容には底知れぬ暗さがあり、この世の人ならぬものを感じた上での命名である。「鬼才」は本来は李賀に与えられた固有名詞だったのだが、日本では芥川龍之介をこの名で呼んだ。芥川の風貌も、金棒を持っているような「おに」とはほど遠い。 「おに」の姿が今日考えられるような「もの」に定着したのは、平安時代も末になってからのことらしい。右の切手は、奈良の興福寺にある国宝天燈鬼だが、鎌倉時代の作品なので、すでに角のある「おに」らしいおにになっている。しかし、古い「おに」のイメージを受け継ぐ百鬼夜行図などを見るとむしろ妖怪のようで、水木しげるの漫画を見ているような印象を受ける。ところで、角を生やした今日の鬼の姿には、何かモデルはなかったのだろうか? まっさきに考えられるのは、四天王に踏みつけられている「あまのじゃく(天邪鬼)」である。しかし、「あまのじゃく」とは、本来は仏教とは関係のない日本古代の悪い精霊であり、古事記にも出てくる「あまのさぐめ」とされている。四天王に踏みつけられている悪霊をもさすようになったのは後のことであり、「天邪鬼」という表記も当て字である。しかし、あのような恐ろしげな姿自体は、仏教では他にもずいぶん古くからあったようであり、よく知られているのは地獄の牢役人としての獄卒である。この獄卒をよく「おに」と呼ぶが、「鬼」の字で表されるのは、本来は責めさいなまれている亡者のほうである。 「六道輪廻(ろくどうりんね)」という言葉がある。「業(カルマ)」の善悪によって、「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」の6つの世界に無限に生まれ変わるという思想だが、地獄の次に悪い場所として「餓鬼道」がある。この「餓鬼」の「鬼」もまた、「おに」の意味ではない。「餓鬼道」は、亡者たちが常に腹をすかせている世界であるが、ここからガツガツとものを食べる子供をさす言葉になった。食糧の乏しかった時代の親の目にはそのように映ったのだろうが、今の母親は子供に食べ残しをさせないように骨を折っている。「餓鬼」も「畜生」も今日では人を罵る言葉となってしまった。「修羅道」は常に戦争をしている世界だが、そこから「修羅場をくぐる」という表現が生まれた。このほか、「因果な商売」「因縁をつける」、さらには近代に入って新たな意味を盛られた「意識」など、仏教起源の日常語は多い。 |