名詞の影の薄い日本語

 今では誰でも知っている「プライバシー」という言葉が日本語の中に入ってきたのは、三島由紀夫の「宴のあと」という小説をめぐる裁判がきっかけであった。「宴のあと」の内容は、元外相で、折りしも東京都知事選挙に立候補していた有田八郎の私生活にあまりにもよく似ていた。有田は三島を訴え、「プライバシー」が侵害されたと主張した。作家もモデルも有名人なので、マスコミは飛びつき、「プライバシー」という言葉は、一躍流行語になった。日本では知られていないこの概念を「私事権」と訳して、すでに戦前に紹介しようとしていた法学者もいたらしいが、「プライバシー」という言葉が広く知られ、日本語に定着するようになったのは、この裁判のおかげであった。

 「宴のあと」裁判は、私の記憶にもはっきり残っていた。いったいいつのことなのかと調べてみたら、「宴のあと」が文藝春秋に連載されたのが1961(昭和36)年、有田が裁判を起こしたのが64年、両者が和解したのが66年ということであった。記憶に残っていたということは、何か興味があったからだろう。15から20のころにかけて、なんでそんなことに興味を持ったのだろう? 今では「プライバシー」という言葉は、すっかり日本語に定着している。流行語がこれほどまでに定着するということは、意外に珍しい。

 「プライバシー」という言葉は、今ではしきりに使われ、他に言い換えができない。これほど大事な内容を示す言葉が、なぜ、それまで日本語の中になかったのだろうか? よく言われるのは、日本に「プライバシー」という「もの」がなかったからだということである。欧米人とつきあい始めた日本人が驚くことは、彼らが鍵束を肌身離さず持ち歩くことである。勤め先などの公的なところはもちろん、家に帰っても、まず玄関の鍵、自室の鍵、自室のロッカーの鍵など、いろいろある。これに対し、伝統的な日本の家では、鍵を用いるところはまずない。ふすまとか、のれんとか、障子とかいう、曖昧模糊とした仕切りがあるだけである。しかし、ちょっと考え直してみると、ふすまとかのれんとかいう何とも頼りない仕切りにせよ、仕切りは仕切りなのだから、日本人が「プライバシー」にまったく無頓着だったということにはならない。赤の他人に家の中のごたごたをしつこく指摘されたら、昔の日本人だって怒っただろうし、家の中でも自室以外の部屋に入る時には咳払いぐらいはしただろう。 ここでは、「プライバシー」の問題を、ちょっと視角を変えて、言葉の面から見てみたい。

 「プライバシー」という英語は名詞である。本来の日本語である「やまとことば」(以後、「和語」という)では、名詞の影がきわめて薄い。もちろん、山とか犬とかいった絵に書けるものの名前は多いのだが、抽象的な語彙となると、漢語に頼らざるをえないのが現状である。人にたいしてやさしいのはいいことだ、まちがったことを見て見ぬふりをしてはいけないという倫理は太古の日本人も持っていただろうが、それを名詞として表そうとすれば、「仁」とか「義」とかいう漢語になってしまうのである。それと同じことで、「プライバシー」にあたる日本語がなかったのは、さまざまな「こと」を抽象して一つの「もの」として考えるということが、名詞の影の薄い日本語ではなかなか思いつかなかったからでもある。プライバシーを侵されて何度も不愉快な思いをしながらも、こういう「もの」は大事にしなければならないという具合に抽象し、一般化する習性がなかったのだと言えよう。

 日本語では抽象名詞が主語になることはあまりない。「何が彼女をそうさせたか」という昭和の初めに映画化された戯曲の題名が衝撃的だったのもそのためである。金田一春彦氏は、日本人には思いつかない表現として、英語の "Success has crowned on my effort." を挙げているが、たしかに、「成功が私の努力に王冠を与えた」などという日本人はいない。「がんばったから、うまくいった」というのが、日本語らしい日本語であろう。日本語では、名詞はイメージが明確な語に限って、使われるにすぎない。一つには、日本語が膠着語であることにもよるだろう。ヨーロッパ諸語のように主語が動詞の語形を決定する屈折語や、一語一語が孤立している中国語のような孤立語では、文を組み立てないと複雑な内容は伝えられない。これに対し、名詞を不可欠としない日本語では、動詞だけでけっこう話が通じる。「出たぁ!」といえばお化けか何かであろう。

 さらに、日本語では、修飾語は必ず被修飾語の前に来る。「赤い花」でも、「太郎が花子に贈った公園で摘んだ赤いつつじの花」でも、「花」が最後に来ることに変わりはない。これに対し、英語では、「泳いでいる女の子」は、"a swimming girl" だが、これに「プールで」というもう一つの情報が加わっただけで、"a girl  swimming in the pool " という具合に、後ろからの修飾が行われる。修飾語があまりに長すぎると、意味がとりづらくなるので、日本語では名詞にあまりにも長い修飾語をつけることは避けられる。「太郎と結婚した花子は幸せになった」と、「花子は太郎と結婚して幸せになった」のどちらが日本語として自然だろうか? 「三匹の子豚がいる」と「子豚が三匹いる」とではどうだろう? 日本語で、名詞が文の主役になりにくいのには、この修飾の問題もからんでいる。谷崎潤一郎は、日本語(和語)には形容詞(名詞にかかる言葉)が乏しいといったが、その原因は、実は名詞の影の薄さにあるのである。

 日本語(和語)に抽象名詞が乏しいというと、「もの」とか「こと」とかいう、抽象性をきわめた語があるではないか、という反論が予想される。しかし、「もの」とか、「こと」とかいった言葉は、いわゆる形式名詞(補助名詞)としての用法が主となる言葉なのである。形式名詞とは、「そんなことするつもりはない」の「つもり」、「そんなことあるはずがない」の「はず」など、名詞としての存在感が際立って薄い名詞のことである。この例文の中には「こと」も含まれている。「もの」にしても、「そんなことあるものか!」とか、「かわれるものなら」とかのように、やはり影が薄い。ところで、「もの」と「こと」の違いは何だろうか? やはり、「もの」というのは、絵にかけるような具体的な「物」をさすのに対し、「こと」は、さまざまな「物」が引き起こす現象だと考えていいのではないだろうか?

 マルクスは、剰余価値という「もの」を考えて、資本家が労働者を搾取していることを証明しようとした。女性が「おおしさ」を示したり、男性が「めめしさ」を示したりする「こと」がなぜ起こるかということを、心理学者のユングは、男女を問わずその内部に「アニムス(男性的なもの)」「アニマ(女性的なもの)」という元型があることで説明しようとした。こういう発想は、日本人にはなかなか思いつかないことなのである。

 明治以来、日本語は西洋語の影響を強く受けてきた。単に語彙的に外来語が増えたというばかりでなく、「三匹の子豚がいる」という表現が、さほど奇異とは感じられなくなるなど、文法面での影響も無視できない。昔は、「その理由は何か」と聞いても通じない人がよくいた。「なぜ、そうなのか」とか、あるいはせいぜい「どういうわけか(「わけ」は形式名詞)と言い直さないと通じないのである。しかし、今では「理由」という言葉は誰でも使いこなせる言葉となっている。
「理由」という言葉が漢語であるように、西洋的な発想は、それまで日本語になじんでいた漢語を媒介とすることで、すんなりと日本語の中に入ってきたのである。


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