「ら抜き言葉」とは何か?
 「ら抜き言葉」とは、「ここに車、止めれる?」のように、ある世代以上の人にとって普通だと考えられる表現から見れば、「ら」が抜けているように見える表現のことである。しかし、それを「ら抜き言葉」と呼ぶのが適当かどうかは、かなり疑わしい。単に「ら」を抜くだけなら、「鈴木先生が来られた」「まずいところを見られた」といった表現も「来れた」「見れた」というはずであるが、そんなことは絶対に無い。これは、前者が尊敬、後者が受身の意味だからであり、「ら」が抜けるのは「10分以内に来られる」「この動物園ではパンダが見られる」のような、可能の意味のときだけに限られる。

 そう考えるなら、「ら抜き言葉」という現象は、「ら」を抜くことに本質があるのではなく、同じように表現されてきた尊敬や受身の意味とは区別して、可能の意味だけを表現しようとするところに本質があることが分かる。単に短くしようとするのであれば、尊敬や受身の意味のときにも「ら」を抜くはずだからである。可能の意味を尊敬や受身から区別しようとするのは、すでに江戸時代に始まっていた。「あの本が読める」の「読める」も昔は「読まれる」のように言われていた。しかし、目上の人に、「あの本、読まれますか」とは聞きづらい。尊敬の意味のつもりであっても、あたかも相手の読む能力を疑っているようにも聞こえるからである。

 「読める」という表現は、今日ではすっかり定着しており、「私はこの字が読まれる」のように言っては、かえって変である。「読める」のような表現は、すでに江戸時代に定着したものであるために、規範にうるさい国語学者からも異議が唱えられることはない。こういった動詞は「可能動詞」と呼ばれ、すべて五段活用の動詞から作られる。「書く」「泳ぐ」「遊ぶ」に対応する可能動詞は、それぞれ「書ける」「泳げる」「遊べる」である。こういった動詞は、かなを元に考える限り、動詞と助動詞のように分割することは出来ないので、全体で一つの語として可能動詞と呼ばれる。しかし、アルファベットで考えれば、つぎのように作られていることが分かる。 
kak-u → kak-eru  yom-u → yom-eru  asob-u → asob-eru
 「100mを13秒台で走れる」の「走れる」は、昔は「走られる」と言っていた。この「走れる」は、「ら抜き言葉」ではない。「走られる」ではもうかえって変と感じられるためもあるが、それ以上に「走る」という言葉が五段活用動詞であり、上の「書ける」などと同様、hasir-u → hasir-eru のようにして成立したものだからである。

 これに対して、「見れる」「出れる」「来れる」のような表現が「ら抜き言葉」とされるのは、いずれも五段活用動詞ではなく、順に上一段、下一段、カ行変格活用だからである。「見られる」「出られる」「来られる」から「ら」が抜けて出来たと見なされて「ら抜き」とされるのだが、「来れる」を除き、下記のいずれかの過程を経て成立したとも考えられる。
mire+ru  dere+ru(「仮定形+る」という解釈)
または

mir-u → mir-eru  der-u →der-eru
または
mi-ru → mi-reru  de-ru → de-reru 
「来(こ)れる」は、このような新たな可能表現が広まった後に「ら」を抜くのだという類推で成立したもので、唯一「ら抜き」と言える例である。なお、サ行変格活用の「する」に対しては、「できる」という可能動詞が別個につくられ定着している。

 つまり、「見れる」のような表現は、「見られる」から「ら」が脱落して出来たというより、「見」に「れる」をつけて出来たと考えたほうが筋が通るということである。そのことを裏付けるものとして、既に可能の意味を持つ可能動詞に、さらに「れる」をつける「レタス言葉」がある。「レタス言葉」とは、「読める」で十分なのに「読めれる」のように言うことで、「れ」が加わっているように見えることから「レタス」というのだが、これも「れる」をつけたのだと見たほうがいい。「受けれる」「止めれる」のような「ら抜き言葉」も、この「読めれる」と同じようにして作られていると考えると腑に落ちる。

 「レタス言葉」は新たな意味を付け加えるわけでもなく、語形も長くなってしまうのだから推奨できないが、「ら抜き言葉」は意味が明快に区別され、頻度の高い可能の表現が短くなるのだから、むしろ推奨したほうがいい。

 いわゆる「ら抜き言葉」とは、五段活用動詞に限って江戸時代に始まった可能表現の独立が、その他の活用をする動詞にも波及したものと考えられる。「レタス言葉」も、「れる」をつけないと可能表現らしくないという気持ちの表れなのであって、「られる」を省略したものではない。それを「ら抜き」と思うのは、「見れる」のような表現になじめないため、なぜ「見れる」のような表現が出てくるのかを考えないままに、自分がなじめない表現をひたすら排除したがる心理の表れだとも言える。言語は絶えず変化するものであり、江戸時代に起こった変化ならよく、現代に起こった変化はよくないというのも理屈に合わない。
 戦後まもなく生まれた私の世代にも、「見れる」のような表現はけっこう多かった。私と同じ世代の人でも「ら抜き言葉」を用いる人は珍しくない。私自身は「ら抜き言葉」を用いず、そのために、どれが「ら抜き言葉」かが理屈ぬきですぐ分かる。五段活用か非五段活用かなどと考える必要もなく、ほとんど感覚的に、「あっ! (いわゆる)ら抜きだ」とすぐ分かるのだが、若い世代には、「見れる」が「ら抜き言葉」で「取れる」はそうではない(可能動詞である)などということは、なかなか分からないのではないかと思われる。学校文法によるこの点の説明は、煩雑になるのを避け、また、私自身納得ができないところも多いので、こちらに別に掲載したので参照されたい。

 「ら抜き言葉」は、というより五段活用以外の動詞に対応する可能表現は、規範的な立場からの異論があっても、今後ますます広まるものと思われる。ただ、「入れる」「忘れる」のような「れる」で終わる下二段活用動詞から新たな可能動詞をつくると「入れれる」「忘れれる」となり、これを仮定形にすると「入れれれば」「忘れれれば」という何とも耳障りな表現になってしまう。そのことを意識するせいか、こういった場合は可能表現の場合も「入れられる」「忘れられる」という元の形が保たれることが多いようである。

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