連文節変換ははたして便利か?
 ワープロができたばかりのころ、メーカーはワープロの辞書をどのように作るかが分かっていなかった。そのため、既存の辞書をそのままワープロに取り込んだ。既存の辞書は、二字熟語を単位として語を載せていることが多い。そのため、「冷蔵」「看護」は出てきても、「冷蔵庫」「看護婦」という、頻度がもっとずっと高い語が出てこず、「庫」「婦」という字を改めて膨大な選択肢の中から探さなければならなかった。

 普通の辞書なら語彙が多ければ多いほどいいのだが、ワープロの辞書では、むやみに登録語数を増やすと、さまざまな不都合が生じた。「みずの」なら、「水の」である可能性が高く、「水野」はともかくとして、「美津濃」などはスポーツ関係者など限られた人しか用いることはないのだが、語として登録されているものを優先すると「水の」は「美津濃」のあとに出てくるということになってしまう。「言わない」は「岩内」という北海道の地名のあとに出てきた。ワープロの辞書は要は変換がスムーズに行われる可能性を高めればよいのだから、何も語の枠にとらわれる必要はないのである。ハードの容量が許し、手間を惜しまないのなら、語であると文節であるとを問わず、同音が重なる場合には、より頻度の高いほうを登録しておくほうが望ましい。ここで述べたようなことは、今日ではかなり改善されているが、ワープロに対する不満として最も多いのは、相変わらず辞書・変換「機能」である。

 機能という語に括弧をつけたのは、この問題を理工系の技術で力ずくで解決しようとする方法ではだめだと考えたからである。それよりは、普通の辞書とは異なるワープロ辞書のあり方についての方法論を確立することが大事だと思う。そして、今もワープロの変換がうまくいかないとすれば、その元凶はいわゆる連文節(複文節)変換にあるのではないか、と私は考えている。ワープロの変換は、はじめ語単位から始まった。そして文節単位、連文節単位と進化したといわれる。しかし、私は  そして文節単位、連文節単位と進化したといわれい文を打ちこみ、それが一発で正しく変換されたときは快感を感じるだろう。しかし、それより、誤変換にいらだつことのほうがはるかに多い。運よく正しく変換されたとしても、少なくとも私の場合、一挙に変換された場合、文節ごとに変換して確認する時間の合計よりも確認に時間がかかるので、能率がよくなるとは思えない。

 もう覚えている人は少ないだろうが、熊本のソフトメーカーが出していたJETというソフトを私は愛用していた。このソフトでは、どんなに長く打ちこんでも、変換されるのは最初の部分だけで、あとはかなのままである。「この妹は、/村のあるりちぎな/一役人を、ちかぢか、/花婿として/迎えることになっていた。/」これは、太宰治の「走れメロス」の一節だが、JETではここにスラッシュで示した5ヶ所で変換すればよかった(「この」は接頭語として自動的に出るようになっていた)。「いちやくにんを、ちかぢか、」を変換すると初め「一夜くにんを、ちかぢか、」とでるが、スペース(変換)キーをもう一度押すと「一やくにんを、ちかぢか」となる。そこで、リターンキーを押すと「一役人を、ちかぢか、」と正しく変換されるのである。ずいぶん手間ではないかと思われるかも知れないが、同じスペース・キーを押しつづければいいのだから、さほどの手間ではなかった。表記を自由に選べる利点もあり、「友達」と「友だち」、「子供」と「子ども」が自由に選べた。漢字が出てきたら、次に漢字が出てくるまで、語の境界を越えていくらでも打てばいいわけで、変換のタイミングに原則があり、安心感があった。とくに打ちやすかったのが話し言葉で、「そうですよ」が「僧です世」などと変換される心配はなかった。

 今のワープロでは、連文節変換を前提に誤変換をさけるため、膨大な数のひらがな語が登録されているようだが、ひらがなで打ってひらがなに「変換」するというのは、考えてみれば、ずいぶん不経済なことではないか? ひらがな語を登録するぐらいなら、原則的に文節変換を前提にした上で、ワープロ辞書を充実させたほうがいいのではないかと思われる。さきの文を一挙に変換すると、「子の妹は、村のある律儀な市役人を、近々、花婿に迎えることに成っていた。」となった。メーカーもさまざまに工夫はしているようだが、これではカーソルを戻して訂正しなければならないし、表記法も自由に選べず、かえって不便だと思う。ただ、「国家公安委員会」とか、「朝鮮民主主義人民共和国」のような長い複合語は、JET方式では確かに変換が面倒であろう。この点については、シフトキーを押しながら変換した場合に限り連文節変換になるというような方法はできないものだろうか?

 私は今も、基本的には文節単位で変換している。変換を確認するための中断がほとんどないし、カーソルを戻す手間もないからである。連文節変換は文節変換より便利なもののように思われやすい。販売はイメージが勝負だから、実際に便利なものより便利そうなものが販売戦略として優先されるという面があったのだろうが、私にはあまりよい方法のようには思えない。

 なお、「まさひろ」「よしあき」のような感じの男子名は「まさ」「ひろ」「よし」「あき」といった要素の登録を充実させ、名前全体としてはむしろ辞書から削除したほうがいいように思う。最初の字が同じ名前を並べて登録しても、長く使っているうちにばらばらになってしまう。名簿などを打つときにはかえって不便なのではないだろうか? 特定の個人名を多用するときは、シフトを押しながら連文節変換にしたらいいし、身近な人の名前としてもっと多用するのなら語として登録すれば済むことである。

 「たいげん」と打って変換しようとすると、「体現」「体言」「大言」「太源」の四つが出てくる。このうち「太源」は要らない。「大言」も「大言壮語」を登録すれば不要である。「体現」も「体現する」という動詞としてだけ登録したらいい。「ちめい」では、「地名」「知命」「知名」「致命」の四つが出てくる。「知名」「致命」は「知名度」「致命傷」「致命的」を登録すれば不要である。論語からきた「知命」もむしろ辞書からはなくしたほうがいい。たまに使うときには一字一字出せばいいわけであり、たいていは圧倒的に多く使う「地名」を誤変換させるもとにしかならない。辞書・変換「機能」を高めるには、こういった文系的な緻密な検討によるほかないのである。


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