日本語のローマ字表記を考える
 
Hammond社のInternational
WORLD ATLASより日本の首都圏。
地名表記はすべてヘボン式。

 日本語のローマ字表記には、「訓令式」と「ヘボン式」とがある。このうち、学校できちんと教えられるのは訓令式だけであり、小学校4年生のとき、国語の授業で必ず教えられる。しかし、世間で一般的に使われているのはヘボン式であり、パスポートにいたっては、ヘボン式で申請しないと受理してもらえない。国家が決めて教えている方式を国家が否定するのだから詐欺のようなものである。七条(しちじょう)さんなど、両者が違う典型で、訓令式では Sitizyo( o の上に^をつける)、ヘボン式では Shichijo(長音表記は特にしない)である。

 ヘボン式は、学校ではきちんと教えられない。中学校に入って英語の授業が始まるとき、英語の教師が教えるのが普通だが、別に義務ではない。まして、国語教師にとって、ヘボン式は無縁のものである。こういう体制だから、訓令式とヘボン式が混線したようなローマ字表記をよく見かけることになる。よくあるのは、「じゃ、じゅ、じょ」の表記であり、訓令式では zya, zyu, zyo 、ヘボン式では ja, ju, jo なのだが、jya, jyu, jyo と書く人が実に多い。訓令式で z と母音との間に y を挟むのは「ざ、ず、ぞ」と区別するためであり、 z ではなく j を用いるのなら y を書く必要は無い。

 二つの方式があることに加え、最近では、訓令式ともヘボン式とも違う入力方式によるローマ字入力でキーボードから日本語を打つことが増えて、混乱にさらに拍車がかかっている。「地上」という語を打ちこむとき、私は tijou と打ちこんでいる。「ち」を ti とするのは訓令式(ヘボン式ではchi)、「じょ」を jo とするのはヘボン式(訓令式ではzyo)である。キータッチの少ない方を選んでいるのである。長音を u とするのに至っては、訓令式でもヘボン式でもない。日本語のローマ字入力は、基本的にカナ表記を逐次ローマ字に置きかえること(翻字)を原則としており、日本語の音をローマ字で表わそうとしたものではない。「ず」と「づ」は別の音とはされていないので、訓令式でもヘボン式でも、ともにzu と書かれ、区別されない。しかし、「望月」という人が自分の名前を打つには、 motizukiではなくmotidukiと打たなければ変換してもらえない。漢字への変換はカナからの変換であり、ローマ字入力はその前提となるカナに置きかえるための方法だからである。

 ローマ字資料室によれば、ヘボン式にも、当初は長短の区別があったようである。しかし、現今のヘボン式では、母音の長短が無視されることが少なくない。上の地図にも見られるとおり、欧米では長音表示は行なわれていないのが普通であるが、これはタイプライターやキーボードで長音符号をうまく表示できないせいもあるだろう。王貞治氏は、現役時代、背番号1の上にOHと書いていた。長音表示をしなかったら、数字が縦に二つ並んでいるだけに見えてしまっただろう。いっそ中国語読みのWANGにしてもよかったかも知れない。「大野」という在外日本人が「ようこ」という奥さんと一緒に役所に行ったところ、「あなたはジョン・レノンか?」と笑われたという。ヘボン式で「大野」と「小野」の区別はできない。当時、パスポートにおける人名表記では母音の長短を無視しなければならないことになったからである。これでは「小野」も「大野」も同じになってしまうので、オ段長音に限り Ohno のように h によって長音を表記することが認められた。しかし、長音表記に常に h を用いるわけにはいかない。kohan では、「湖畔」なのか、「考案」なのか分からないからである。

 ローマ字表記のこのような混乱を放置するのは、私にはどう考えてもいいことだとは思えない。やはり表記を統一したほうがいいと思うのだが、その際、私は訓令式を基本にすべきだと思う。積極的に訓令式を勧める理由はあとで述べることにして、まずなぜヘボン式をとらないかということを述べたい。ヘボン式のメリットは、英語国民に原音に近く読んでもらえるということだろう。「ち」を chi と書けば「チ」と読んでもらえるが、訓令式のように ti と書いたのでは「ティ」と読まれてしまう。しかし、このメリットは、相手が英語国民であるときに限られる。chi という綴りは、フランス人なら「シ」、ドイツ人なら「ヒ」、イタリア人なら「キ」と読むことだろう。それなら、ローマ字を用いるどの言語でもしているように、自分の言語にあった用い方をするのがいいということになるだろう。子音部分はともかく、英語のローマ字表記はとくに母音部分について癖が強すぎ、英語国民に配慮していたら切りがない。たとえば、「和田」など、Wada ではまず「ウェイダ」としか読んでもらえず、「わだ」に近く発音してもらおうとするなら、Wadda とでも書かないといけない。

 日本語のローマ字表記を考えるに当たって、まず考えるべきことは、日本語にとって、ローマ字にどのような使い道があるかということである。ローマ字表記の必要が生じるのは、長いあいだ、固有名詞をローマ字で表記するときにほぼ限られてきた。これだけなら、英語圏との行き来が多いのだからヘボン式にするという考えも成り立つかも知れない。しかし、日本語を欧文と共通のキーボードを用いて入力することが多くなった今となっては、頻繁に用いる「し」や「ち」を si, ti でなく shi, chi と打ちこむのはあまりにも能率が悪い。キータッチを減らしたいならカナ入力方式にすればいいではないかという意見もあるだろうが、カナ入力では記憶に余計な負担がかかる上、4段を用いるため、ブラインド・タッチが難しい。シフト・キーを用いて3段に収める方式は、どの字とどの字を組み合わせるかという問題が生じて、記憶への負担がいっそう重くなる。やはり、欧文の配列をそのまま用いられるローマ字入力が、覚えるにはいちばん楽であろう。ローマ字入力のキータッチ数は、カナ入力の約1.5倍というが、カナ入力では指の動きが滑らかでなくなるため、実際にかかる時間の差はもっと小さい。

 しかし、私が訓令式を推すのは、キーボードへの入力が容易だからということだけではない。最大の理由は、日本語のカナをきわめて規則的にローマ字に置きかえられるという点にある。試みに、下の表を見ていただきたい。小さい「やゆよ」をともなう拗音を一字と数えた場合を含め、外来語を除く日本語を表記する上でこの表以外に必要なカナは他に「わ」「を」「ん」「っ」の4つだけである。「ファイト」の「ファ」などに用いられる小さい「アイウエオ」、「カード」などに用いられる長音符号の「ー」など、外来語の表記に必要な字については後に述べる。なお、「ぢゅ」「ぢょ」は、一日中が「いちにちぢゅう」ではなく「いちにちじゅう」と書かれるように実際には用いられず、「ぢゃ」も「めおとぢゃわん」などごく少数の語以外には用いられない。

ぴゃ びゃ ぢゃ じゃ ぎゃ りゃ みゃ ひゃ にゃ ちゃ しゃ きゃ
ぴゅ びゅ ぢゅ じゅ ぎゅ りゅ みゅ ひゅ にゅ ちゅ しゅ きゅ
ぴょ びょ ぢょ じょ ぎょ りょ みょ ひょ にょ ちょ しょ きょ

 私案の骨子は、上の表で示されたカナをそのまま下の表のようにローマ字に置きかえることである。横に並んだ子音に縦に並んだ母音を続けさえすればよい。初めてローマ字を習う小学生にとって、実に覚えやすい体系をなしている。子供たちは、最初にカナを覚え、つぎにローマ字を覚えるのだから、その順序に従って、日本語の音を直接ローマ字で表わすのではなく、カナをローマ字に置きかえるということを基本にしたほうがいい。なお、下の表で黄色い枠にしたところは、訓令式とヘボン式とで違いが見られるところ、ピンクの枠にしたところは、訓令式でもヘボン式でも用いられないところである。私案では、「もちづき」は、Motiduki と表記することになり、明治時代に田中館愛橘が唱えた日本式(訓令式はこれとヘボン式との折衷なのだが、両者の違いは、戦後のカナ遣いの変更によりほとんどなくなった。)に近いが、現代カナ遣いに基づく上に、後述の通り新たに日本語に入った外来音の表記をも考えようとする点が違う。なお、dyu,dyo という表記は、「ぢゅ」「ぢょ」というカナ表記自体がなくなったため、現実には用いられない。

p b d z g r m h n t s k /
pa ba da za ga ra ma ha na ta sa ka a a
pi bi di zi gi ri mi hi ni ti si ki i i
pu bu du zu gu ru mu hu nu tu su ku u u
pe be de ze ge re me he ne te se ke e e
po bo do zo go ro mo ho no to so ko o o
pya bya dya zya gya rya mya hya nya tya sya kya ya ya
pyu byu dyu zyu gyu ryu myu hyu nyu tyu syu kyu yu yu
pyo byo dyo zyo gyo ryo myo hyo nyo tyo syo kyo yo yo

 上の表以外で小学校4年生が覚えなければいけないローマ字表記は、あと僅かに「わ」「を」「ん」「っ」の4つだけであり、それで外来語以外の日本語はすべて表記できる。「わ」「を」は、それぞれ wa, wo で示す。今では使われていない「ゐ」「ゑ」も wi, we で示す。助詞の「は」「へ」は、wa, e ではなく、ha, he で示す。

 促音(「っ」)については、「ばった」を batta と書くように、次の子音字を重ねて示す方法が、訓令式でもヘボン式でも行なわれている。しかし、カナから出発する小学生にとって、同じ「っ」がさまざまに書き分けられるのは、分かりづらい。まして「坊ちゃん」を botchan と書くような表記は、英語を知らなかったら、心から納得できるはずもない。だから、促音を常に一定の字で表記するほうが好ましい。では、どの字を促音に用いたらいいのだろうか? 今のところ、日本語のローマ字表記に用いられていない字は c,f,j,l,q,v,x の7字である。その中で、促音表記には、 q が最も適当だと思う。 q は、ローマ字を用いるどの言語でも、あまり用いられない字だから、どの言語の使い手からにしても、まず「どう読めばいいのか」と聞かれる可能性が高く、勝手に誤読してしまう心配は比較的少ないだろう。
私案による表記例
konqyaku 婚約
konnyaku こんにゃく
konyaqku コニャック

 「ん」についても、できれば同じく一定の字を用いたいのだが、誤読の心配のない適当な字がないので、n を用いることにする。「ん」にナ行と同じ n を用いたときに不便が起きるのは、あとに母音やヤ行音が続く場合である。genin は、「原因」かも知れないし、「下人」かも知れない。こういう場合は、やはり q を活用して、「原因」は genqin 、「下人」は genin と書けばよい。「『ん』の後ろに『あいうえおやゆよ』が続くときには間に q を挟む」ぐらいなら、小学校4年生にもさほど難しくないと思う。 genqin と書いても、「げんっいん」と読まれる心配はありえない。断固として拒否するときなどに「行きませんっ!」というような表記をしたくなるときもあろうが、こういうときには、「行きませんばった」とでも打って、あとで「ば」と「た」を消せばいい。手間がかかるが、こんな表記が必要になることはめったにないのだから、これぐらいの手間は問題にならない。

 以上で、外来語(洋語)を除く日本語(和語+漢語)に必要なローマ字表記は出そろった。残るのは、「ティ」など、日本語でも確立した外来語起源の音をどう表記するかという問題である。

 まず、長音表記について考えてみたい。私の提案するローマ字表記は、カナから出発し、それをどうローマ字に置きかえるかということなので、和語や漢語の長音は、「大路(おおじ)」は oozi 、「王子(おうじ)」は ouzi というようにカナ表記に従えばよい。普通は「けーえー」と読まれる「経営」も、カナ表記に従って keiei と書けばよい。問題なのは、「カード」などの外来語に用いられる「ー」である。私は、これはコロン(:)を用いればいいと思う。コロンは、国際音声字母(IPA)でも、英語の sea を [si:] と表記するように、長音表記に用いられている。


 つぎに、長音以外の外来語の問題に移る。どのような表記が外来語に必要かについては、平成3年6月28日付けの内閣告示第2号「外来語の表記」をまず参照しなければならない。この告示の第1表には、外来語や外国の地名・人名を書き表すのに一般的に用いられるものが和語・漢語にも用いられる表記とともに挙げられ、第2表には、原音や原つづりになるべくちかく書き表す場合に用いるものが挙げられている。第1表に収められているものは、すでに日本語でも、既存の音とは別の音として定着しているものと見てよいだろう。外来語のローマ字表記も、この第1表をカバーすれば十分であり、第2表までカバーしていたら十二分だと考える。以下にそれぞれの音について、ローマ字表記の私案を示す。第2表にも挙げられていない表記であるが、「スィ」は sji 、「ズィ」は zji と書けばよいと思う。「ヴ」を含む表記は、現実に発音し分けられていないので、カナ表記自体すべて廃止する。こういうものが必要だとすれば、むしらラ行に濁点を打つなりして、RとLとを区別することも必要になってくるであろう。なお、外来語の表記については、なぜこのような表記にしたのかについては、さらに説明が必要だが、詳細についての補足記事のアップは、しばらくお待ちいただきたい。

第1表  シェ(sye)、チェ(tye)、ツァ(tsa)、ツェ(tse)、ツォ(tso)、ティ(tji)、ファ(fa)、フィ(fi)、フェ(fe)、フォ(fo)、ジェ(zye)、ディ(dji)、デュ(dju)

第2表  イェ(ye)、ウィ(wi)、ウェ(we)、ウォ(wo)、クァ(kwa)、クィ(kwi)、クェ(kwe)、クォ(kwo)、ツィ(tsi)、トゥ(twu)、グァ(gwa)、ドゥ(dwu)、ヴァ(廃止)、ヴィ(廃止)、ヴ(廃止)、ヴェ(廃止)、ヴォ(廃止)、テュ(tju)、フュ(fyu)、ヴュ(廃止)

 次に、キーボード入力における特例について考えてみたい。「ジャ」「ジュ」「ジョ」は外来語でなくても用いられる音であるので、キーボード入力の場合に限り、キータッチを減らす意味で、「ジェ」を含めて ja,ju,jo,je と打っても zy- を用いたときと同様にカナに変換されるようにすればいい。これで、外来語を含めて私案でまったく用いられない文字は、c,l,xの三つだけとなる。 それをも、j と同じように方便というか裏技として用いるなら、c は「チャ(ca)」「チュ(cu)」「チョ(co)」「チェ(ce)」、x は「シャ(xa)」「シュ(xu)」「ショ(xo)」「シェ(xe)」、l は「リャ(la)」「リュ(lu)」「リョ(lo)」「リェ(le)」を打つのに用いることができ、カナ入力とのキータッチ数の差をさらに減らすことができるだろう。ただし、ここで述べてきたことは、キーボード入力の場合に限ったことに過ぎないので、パスポートなどでローマ字を正式に用いる場合には、たとえば「純子」は Junko ではなく Zyunko と書くようにする。j,c,l,x を用いるこのような方便(裏技)を小学生に教えるのは、ローマ字をマスターさせ、それに準拠した入力法をすっかりマスターしてからにしても遅くはない。

 訓令式をもとにしたローマ字表記は、日本語の文法の説明にも役立つ。「立たない」「立ちます」「立つ」をヘボン式のように ta,chi,tsu と書き分けていては、このようなメリットはない。もともとタ行は、日本語でも「タ・ティ・トゥ・テ・ト」だったのであり、のちに「ち」と「つ」の音が後続の母音の影響を受けて「タ・テ・ト」の子音とは違う音になったに過ぎず、英語などから「ティ「トゥ」とという音が入って来るまでは、全く区別する必要がなかったのであるから、今でも「ティ」「トゥ」よりずっと使用頻度が高いのだから、ti,tuと表記すればいい。日本語の「ニ」「ヒ」の子音は、それぞれフランス語の gn、ドイツ語の ch の子音であり、「シ」「チ」の子音が[s][t]でないのと同様に[n]や[h]ではない。英語で区別されるものだけを特別扱いにするということは、私はどうにも納得ができない。「ティ」が日本語の音として定着していなかったなら、 t と ch とを書き分けることは、英語の[ni]をわざわざ「ヌィ(私案でのローマ字表記なら nyi)」と書くのと同じぐらい、必要のないことだったはずである。

 同じローマ字表記といっても、言語が違えば、誤読されることは仕方がない。旅行中程度は我慢して、親しくなった人に限って原音に近い呼び方をしてくれるよう頼めば十分だと思う。新しくローマ字による表記を受け容れたトルコ語、ベトナム語、インドネシア語や中国で発音表記に用いられるピンインの例を見ても、みな自分の言語を体系的に表わすことを第一にしている。日本語のローマ字表記も、何をおいてもまず日本語のためのものであることを忘れてはならない。

 ローマ字教育を英語教育につなげようとするような考えは、安易には持たないほうがいい。英語のスペリングは、世界のローマ字の用法から見てひどく癖が強いのだから、日本語のローマ字表記はいったん忘れなさいぐらいのことを最初に断わっておくことは、どのようなローマ字表記をしようとも、必要でなくなるということはないのである。

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