漢字略語とアルファベット略語

第100回JDA
日本皮膚科学学会
Japanese
Demotological
Association 記念

 世界中を震撼させた「狂牛病」騒ぎは、人間の都合で草食動物をだまして肉食させる恐ろしさを証明した。「狂牛病」は正式には「牛海綿状脳症」というそうで、英語の略称はBSEというという。何の罪もなく、人に噛みつくわけでもない牛を「狂牛」と呼ぶのには抵抗を感じるので、正規の名称で呼んでほしいとは思うのだが、「牛海綿状脳症」はあまりにも冗長であり、一方、"BSE"では、何らのイメージも喚起せず、分かりにくいことおびただしい。

 一昔前の日本では、新しく出現したことで、しきりに人の口にのぼる言葉は、漢語の略称で呼ばれることが多かった。経団連(経済団体連合会)、日教組(日本教職員組合)のたぐいである。当時は、このような略称への風当たりが強かったのだが、今にして思えば、聞いてすぐに何のことか分からないBSEのような言葉の横行に比べれば、遥かにましであったと思う。「経団連」と聞いて「経済団体連合会」の略語と察するのは、一通りの日本語の読み書きのできる人にはさほど難しくはない。これに対して、BSEでは、lこれが仮にNHK(日本放送協会)のような日本語の略称だとしても、何のことか分からない。

 BSEと初めて聞いて何のことか分からないのは、何も日本人に限ったことではない。英語国民でさえ分からない。違うのは、日本人が「経団連」が「経済団体連合会」の略だと聞けばすぐ分かるのに対して、英語国民の場合、BSEがbovine spongiform encephalopathyだと聞いても、分かる人がきわめて少ないという点である。最初のbovine(「牛の」の意味。「月」が固有英語のmoonなのに「月の」となるとlunarとなるのと同じくラテン語起源)からして分からない。日本語の漢語に当たるギリシャ語、ラテン語起源の語の羅列だからである。そして、言語的な貧富の差が日本人よりずっと甚だしい大半の英語国民の場合、日本人が漢字という難しい語への回路を身につけているのに対し、それに当たるものを持たないから、途方に暮れるほかはないのである。aquired immunity deficiency syndrome(後天性免疫不全症候群=AIDS)にしても同じである。

 televisionのことを日本語では「テレビ」という。しかし、この語はtele(遠い)というギリシャ語とvision(見るもの)というラテン語を組み合わせてできた言葉なのだから、英語におけるように、TV(ティーヴィー)というのが、語源に即した略し方であろう。しかし、日本人にとっては、テレビジョンという言葉を一旦おぼえた上でそれを略すとすれば、漢字程度には手がかりを残した形のほうがはるかに分かりやすい。だから、テレビになるのである。「パーソナル・コンピューター」をPCというより、パソコンという方がはるかに分かりやすいのである。「セクハラ」をSHと言って誰が分かるであろうか? ちなみに、ドイツ語ではテレビのことをFernsehという。televisionを固有語になぞり訳したもので、日本語でいうなら「とおみ(遠見)」といっているようなものである。「とおみ」とまで言うべきかどうかは別として、私には中国におけるように「電視」という方が、少なくともTVというよりはいいと思うし、PCより「電脳」の方がいいと思う。

 若い世代のよく使う「デパチカ(デパートの地下)」とか「ゲーセン(ゲーム・センター、英語ではamusement centerというのでこれは和製英語)」とかいう言葉がよく槍玉にあげられる。しかし、私が真っ先に問題にしてほしいと思う言葉は、BSEやTVのようなアルファベットの羅列語なのである。新しい概念がめまぐるしく生まれる現代において、このような語はこれからも次々と登場するだろうが、26文字しかないアルファベットではたちまち飽和状態になってしまう。あるアルファベットの組み合わせの新しい意味を知っているものだけが、さも得意そうに分かる者同士で語り合い、分からない人を疎外し馬鹿にするという言語状況は、どう考えてもいいものだとは思えない。

 新しいものがつぎつぎと生まれる現代にあって、かつて身近だったものが縁遠いものになり、新しく出現したがゆえに長い名前のつけられるものが身近だという状況は、これからも続いていくだろう。身近なものを呼ぶ名が冗長であるのは不便であるから、略語は日本語に限らずどこの言語でもつぎつぎと現われる。漢字を持つ我々としては、新しいものに似た古いものをもとに簡潔な語を作るというのは、悪い方法ではないと思う。銃や自動車ができたとき、それは物珍しいものであった。しかし、今ではかつて身近だった弓や馬こそ珍しいものになっている。しかし、銃から発射されるものは弓へんで「弾丸」と書かれ、四つのタイヤで走る車も馬へんで四輪駆動と書かれる。「くるま」という言葉がが時代とともに意味を変えてきたように、新しい言葉を古いものにたとえて簡潔で分かりやすいものにする工夫を怠ってはならない。すべてを訳せとは言わないが、適宜訳す程度の努力を怠り、アルファベットの羅列ばかりを得意そうに輸入しているうちに、どうしようもない混乱が日本語に起こってしまう可能性も、決して低いとはいえない。

急に「カンテイカイ(幹定回)」と言われても何のことだか分からないが、アルファベット略語よりはましだと思う。筆者撮影。

 最後に、BSEを日本語でどう呼べばいいのだろう? 機械的に略せば「牛海脳症」だろうが長すぎる。「海脳症」ではどうか? 牛の病気であることは、必要があるときに限ってつければいい。しかし、「海の脳」って何だろう? 意味から考えれば「綿脳症」の方がさらに良いように思える。日本では和服に対して「洋服」という。今では語源意識がなくなって、インドのサリーを平気で「きれいな洋服」などという若者もいるが、これは、本来「西洋の服」のことである。中国では、「西服」といい。さすがに一字一字の意味に敏感である。「洋服」では、ダイビング・スーツのことになってしまうだろう。な漢語が語彙の生産力を失ったから英語が増えているという人もいるが、実は、日本人が漢語を利用する意欲を失ったということに過ぎないということがよく分かる。中国のコンピュータ用語など、日本人には意味がピンとこず、そのままでは取り入れられないものもあるが、「光標(カーソル)」など分かりやすく、考えてみれば何も英語で言わなくてもと思うものも多い。

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