差別語とは
どのような言葉か?

 あるとき、私が授業で、「むかし、アメリカでは日本人を"Jap"と読んで馬鹿にした」と説明していたとき、"Jap"というのは"Japanese"を略しただけなのに、それがなぜ差別語になるのかと食い下がってきた生徒がいた。けっこうしつこかったが、「『朝鮮人』というのは単に『朝鮮の人』ということなのに、日本では差別語のように使われているではないか」と言うと、あっさり納得して引き下がった。たしかに多音節語を一音節語に短縮することは英語では普通に行われる。最近の英語の教科書に"fridge"という耳慣れない言葉が載っている。これは、"refrigerator(冷蔵庫)"の略語なのだそうだが、私は授業で習った覚えがない。"Jap"も英語の略し方としては自然だが、呼ばれる側に不愉快な印象を与えるのは、呼ぶ側が差別的な感情を込めて作り出した言葉であり、呼ばれる側にもその感情が読み取られてしまうからである。

 ところで、「朝鮮人」というのは略語でもなく、朝鮮人自身が使っていたのだから差別語でもなんでもない。しかし、不幸な歴史の中で、日本人の側から差別的なニュアンスのある言葉として使われたことも確かである。「韓国人」という言い方が日本で急速に普及したのは、韓国との国交が密になってきたことに加え、「朝鮮人」という言い方に日本人自身が負い目を感じるからでもある。異色の社会学者である金明観(キム・ミョングヮン)氏が外国人登録済証明書への指紋押捺拒否で逮捕されたことを報道するニュース番組で、アナウンサーが「朝鮮人」〔本人がそう言っているのだから「韓国人」とは言えない)というのをひどく言いにくそうに言っているのを聞いたことがある。しかし、今ではその言葉を誇り高い言葉にもどしたいという気持ちから、韓国籍で韓国サイドの民族団体に属する人の中にも、みずから自分を「朝鮮人」と表現する人も少なくない。この場合、北朝鮮とは何の関係もない。なお、韓国でも朝鮮という言葉は意外とよく聞き、日本でいう李朝時代は「朝鮮時代」と呼ばれる。つまり歴史的名称としては韓国でもさかんに使われるのである。「朝鮮日報」は韓国有数の大新聞だし、「朝鮮ホテル(最近改名したときくが)」はソウルきっての老舗のホテルである。韓国では大学を「大学校」と呼ぶが、「朝鮮大学校」という大学もある。これはたまたま日本にある朝鮮総聯系の大学と同名である。会社名にしても、「新羅紡績」や「高麗紡績」があるのと同様に「朝鮮紡績」という会社もあるという具合である。

 世界のマイノリティとされる民族に欧米人がつけた名称の多くは、差別的な意図がこもっている例が多いので、最近では「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」と呼びかえたり、ロマ(ジプシー)、イヌイット(エスキモー)、ニブヒ(ギリヤーク)のようにその民族の自称に代えたりしている。新しい呼称は、それぞれの民族の言葉で「人間」を意味している例が多い。左は、1982年に日本でもヒットした映画「ブッシュマン」のポスターである。しかし、「ブッシュマン」というのは、「藪の中を移動して暮らす原始的な人間」という意図での名づけであるため、第2作は「コイサンマン」という名に改められた。「コイサン」というのは、「コイ(ホッテントット)」と「サン(ブッシュマン)」の言語でそれぞれ「人間」を意味する言葉を並べたものである。民族名に対する配慮が日本でも行われるようになったのは、このころからであり、ずいぶん最近のことであることが分かる。

 人間を意味する自称までもが差別語のように感じられる例もある。「アイヌ」がその例で、まぎれもなくアイヌ語で「人間」という意味の言葉である。和人に対する反乱(というより戦争)のリーダーとなった「コシャマイン」「シャクシャイン」がそれぞれ「コシャムアイヌ」「シャクシュアイヌ」の語尾の母音が落ちたものであるように、人名にも普通に用いられていた。ところが、この言葉を和人は「あ、犬が来た」というふうに用いた。そこからアイヌ人の中からも、この言葉をいやがる人が出るようになった。アイヌ人の団体としての「北海道アイヌ協会」が半世紀近くも「北海道ウタリ協会」と名のっていたのもその表れである。「ウタリ」とは「同胞」という意味のアイヌ語だが、「アイヌ」という言葉を嫌うアイヌ人への配慮からこのような名称になっていたようだが、2009年の4月にようやく旧称に復することになった。

http://www.ainu-assn.or.jp/about01.html

 「アイヌ」を「ウタリ」とよぶのは、ちょうどアメリカで黒人を「ブラック」ではなく、「カラード(色つき)」と呼んだ時期があったのを連想させる。「ブラック」という表現に白人の側からの差別的な気持ちが込められていたことは確かであろう。一度芦屋市の市民センターでケニアの子供の描いた絵を見たことがあるが、どれも人の顔は輪郭だけで色を塗っているのが一つもないことにハッとしたことがある。みんなが同じ肌の色をしているのだから、塗りつぶす必要はどこにもない。アフリカ人の場合、「黒い」ことが特殊なことだとは思っていないのである。

「障害」は「障礙(障碍)」と書くべし  最近、「障害」という言葉について、障害者のことを考えるなら、「害」という字はイメージが悪すぎるので、他の言葉に代えるべきだという声がある。たしかに、「害」には「他をそこなう」という悪い意味がある。「しょうがい」という言葉は本来は「障礙」と書いた。「障」も「礙」も「さしさわり」という意味であり、「他をそこなう」という意味はない。「山岳」とか「河川」同様、よく似た意味の字を並べる漢語によくある言葉であった。ところが、戦後の漢字制限により、「害」の字に書きかえられたのである。「礙」の字の俗字として「碍」という字がある。電流を遮断する「碍子」に用いられる。これは、まさに漢字制限の罪である。「害」も「礙」も日本の漢字音では同じ「ガイ」だが、朝鮮漢字音では「害」は「ヘ」、「礙」は「エ」であって、韓国で「しょうがい」は今も「チャンエ」という。思うに、漢字制限を行った当時は、今のように少数者の人権に配慮する雰囲気がなかった上に、漢字自体を表音化しようというアメリカ主導の言語政策の下で、漢字一字一字の意味を緻密に検討しようという考えもなかったために、「障害」という不適切な書き換えが行われたのだと思われる。

 しかし、マイノリティであるアフリカ系アメリカ人は、たえず自分たちが「黒人」であることを意識せざるをえない。そして、そのことにできるだけ触れたくないという気持ちに長い間追い込まれていた。しかし、公民権運動が盛り上がったころから、黒人自身が自分たちを「ブラック」と呼ぶ動きが急速に広まった。"Black is beautiful.(黒は美しい)"という標語が叫ばれ、精悍なイメージを求めて"Black Panther(黒豹)"と名のった急進派もいた。このような例は、何が差別語で何が差別語でないかは、呼ぶ側だけでなく、呼ばれる側の意識によっても刻々と変わっていくものであることを物語っている。

中国語では今も「原住民」という 中国語では、日本では差別語として避けられる「原住民」という言葉が用いられている。「先住民」というと、「もういなくなった住民」という意味になってしまうという。「原住民」という語は、とくに差別的とは感じられていないとのことだが、このことが日本語でも「原住民」という言葉を使っていいという論拠にはならない。

 一人一人の人間にはさまざまな違いがある。違いがあるからこそ、この世は楽しく、面白く、生きるに値するのだが、その違いのどれかを決定的なものとして人を落としこめるのに用いられる言葉は差別語となる。日本語には「~のくせに」という言葉がある。英語のthoughなどとは異なり感情性が強い。「責任者のくせにそんなことも知らんのか」というように相手の奮起を促すときや、「素人のくせに無理をするな」というように未熟な者をいましめるときには効果的でもあり、差別語とは思わないが、「女のくせに」とか「外人のくせに」と言ったときにはあきらかな差別語となる。より問題のない表現としての「~なのに」や「~にもかかわらず」にしても、けっこう感情性が感じられるのだが、ここにも日本の歴史の負の遺産が反映されている。かつての日本社会は厳しい身分社会であった。アメリカ人ルース・ベネディクトの書いた「菊と刀」という日本文化論には、「過分」という言葉が日本人の愛用語として挙げられているが、さすがにこの言葉は最近耳にすることはほとんどないが、「分際」という言葉は今でもけっこう使われる。「さすが」という言葉にしても、「~のくせに」の裏返しで、人が高い地位や職責にふさわしいと感じられたときによく使われる。

 差別の本質は、社会に出来上がった不平等を利用して他者より優位を確保しようとするさもしい性根である。このような性根を克服できない者は、人間として優れているとはいえない。その意味で差別の問題は差別する側がいかに自分を高めていくかという問題でもある。言葉が差別語となるのは、このような性根の表現となるときである。この性根を改めない限り、「土人」に代った「原住民」がまた差別的な響きを帯び、さらに「先住民」という新語が作られるということがこれからも繰り返される。しかし、言葉は言葉として一人歩きもする。「自分はそんなつもりで言ったのではない」とか「この言葉はそんな語源ではない」といくら言っても、その言葉を不愉快と感じる人がいるのならば、使うのを差し控えるのは当然のことと思う。

 たしかに差別に反対する運動の中に、安易な「言葉狩り」に走る向きがあったことは事実である。「言葉狩り」は不毛である。相手が単にその語の意味を知らずに使ったのなら、そのことを教えて注意すればいいのであり、かさにかかってそれを攻撃すべきではない。「言葉狩り」は、リストアップされた言葉さえ避ければ問題はないという、問題への浅薄な認識を生み出してしまう。その意味で、「言葉狩り」への批判には同感できる部分もある。しかし、だからといって、どんな言葉でも使っていいとは言えない。常に言葉の背後にある自分の心を検証する習慣をつけることこそ、現代の教養の重要な一部をなすと考える。筒井康隆氏は「言葉狩り」への反発から断筆宣言をした。筒井氏には、人を傷つけることのない表現を新たに考え出すことも、文筆で生きる者の重要な務めなのだという認識がまるでないように思われる。言葉による差別で人が苦しむということは、物書きが表現に不自由するということより、はるかに重大な問題なのである。


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