作文に「主語」は必要か?

 英語を習い始めたころ、日本語の単語と英語の単語は一対一で対応するものだと思っていた。this は「これ」、it は「それ」、that は「あれ」だと思っていた。私に限らず、たいていの中学生がそのように理解していたと思う。ところが、英語の文法を習うと、this と that は「指示代名詞」であり、it は「人称代名詞」だという。私は混乱した。「これ」「それ」「あれ」でセットではないのかと思ったからである。この点でも、たいていの中学生が、私と同じ思いをしたのではないかと思う。

 英語で電話をかけるとき、日本語で「~と申します」というところを、英語では This is ~ speaking. と言うのだと教わった。そのとき、なぜ I am ~ と言わないのだろうかという疑問を持った。英語では相手が自分を何者かを認識していないときに"I"を使うのは不適当で、this や that のような指示代名詞を用いるのが自然なのだろうと、今では理解している。

 しかし、英語でも、いきなり人称代名詞が用いられることがあるようで、漱石の「吾輩は猫である」の英訳の書き出しも、I am a cat. となっている。"I"とあれば、作者本人ではないとしても、小説の中で"I"という役割を与えられた人物であるという事前の了解が読者にあるからだろう。現実に人と向き合っているのと似たような状況がそこにはある。

 私が、this や that とは性格の違う it をその同類と考えたのは、中1の初めのころの英語の授業のせいだったと思う。"Is this a pen?"という問いは「これはペンですか」と訳され、"Yes, it is a pen."という答えは「はい、それはペンです」と訳されていた。

 さて、ここで問題なのは、"Yes, it is."というだけの答えが当時でも「はい、そうです」と訳され、it が無視されていたことである。この訳し方をこそ、広く用いるべきだったのではなかったかと今にして思う。it は訳してはいけない言葉であり、"Yes, it is a pen." も、「はい、ペンです」と訳せばよかったのである。

 単独で陳述能力を持たない英語の動詞は、主語となる名詞や代名詞と組むことで初めて陳述能力を得る。これに対し、単独で陳述能力を持つ日本語の動詞、形容詞には主語は要らない。名詞の場合も「だ」です」などの接辞がつくことで陳述能力を得るので、この場合も主語は要らない。it を訳さないということで徹底していれば、It is seven o'clock."(7時です)や、It is getting dark."(暗くなってきた)の"it"のようないわゆる形式主語も、すんなり理解できたのではないかと思う。なまじありもしない主語を日本語でも強調するから、英語でも主語を落とす生徒が出てくるのかも知れない。

 主語のいらない日本語では、とくに「~が」などで自分のことじゃないということが指定されていない限り、「私」のような言葉は不要である。「つれづれなるままに日暮し硯に向かひて(兼好・徒然草)」「親譲りの無鉄砲で小供のころから損ばかりしている(夏目漱石・坊っちゃん)」「恥の多い生涯を送ってきました(太宰治・人間失格)」のいずれでも、「私」のことであるということは、誰にでもすぐ分かる。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という川端康成の「雪国」の書き出しでは英訳では The train came out of the long tunnel into the snow country."というように、原文にはない汽車を主語としているとのことだが、実はこれも「私」のことである。トンネルとあるから「私」が汽車に乗っていることが分かるというだけで、「峠を越えると美しい湖が見えた」というのと構造は同じである。ここで挙げた書き出しに「私は」とか「俺は」といったような語を添えると、味わいが台無しになることは、日本語で育った人なら、たいてい認めるはずである。「さんぺいです」「ヒロシです」を登場するときのギャグにしていたタレントがいたが、これに「主語」をつけたりしたら、およそ受けそうにもない。

 閑話休題。小学校のころ良い文章を書いていた子供が、中学に入るととたんに変な文章を書き始めるという話をよく聞く。私は、その大きな原因の一つとして、英語の授業の影響があると思う。主語が必要な英語(などの印欧語族の言語)の原理を、そのまま日本語に当てはめるからだろう。そのため、無駄な主語(らしきもの)が目立ってくる。

 生徒の読書感想文の書き出しから実例を挙げてみよう。「僕はこの本を読んで報道というのは恐ろしいものだと思った。」……まず「僕は」が要らない。次に感想文によくあるように、表題が「~を読んで」となっているのだから、「この本を読んで」も要らない。私は、生徒の文章を添削するとき、「主語」という言葉はなるべく使わないようにしている。「~は」と書いたら文末をそれに対応させよ、というようなことを常々言っている。したがって、この書き出しは、私が添削すると、「報道というものは、恐ろしいものだと思った」となる。「ぼくはこの本を読んで作者がいいたかったことの中で罪や罰についての問題が頭にのこった」は、「作者がいいたかったことの中で罪と罰という問題が頭にのこった」となる。

 生徒の作文には、「~と思う」「~と思われる」という表現が目立つ。日ごろ謙虚なのはいいのだが、文章を書くときぐらいは、言いたいことをはっきり書いて欲しい。これに、「主語を書きなさい」という指導が加わると悲惨なことになる。「雨が降る日は天気が悪い」といえばいいところを「私は雨が降る日は天気が悪いと思います」などと書かれた日には、雨が降る日がテーマであるということがぼやけてしまう。こういう場合、「思う」「思われる」という表現は最小限にせよというのが、作文指導の第一歩であろう。そのことを抜きにして、主語を云々することから、事態はさらに悪化する。

 「僕は」とか「私は」とか書き始めておいて、生徒はそのことを忘れてしまう。そこから、「僕は、雨の降る日が天気が悪い」というような表現が生まれる。「私が思ったことは」と書き始めたのなら、「~ということです」と結べばいいのだが、「私が思ったことは、……~と思う」というような文章にもよく出会う。「僕が~と思った理由は、……~からです」という文章も多い。最初の「思った理由は」を「思ったのは」とするか、最後の「~からです」を「~ということです」とするか、どちらかにしてほしいものである。こういった不整合は、最初に主語めかしたものなど書かず、せいぜい最後に「~と思う」とか「~からだ」と付け加えるに留めることでたいていは解決する。

 「主語と述語がめちゃくちゃだ」と言われる文章の大半は、西洋語めかしてへたに主語らしきものを意識した文章である。日本語には主語はないと割り切るほうが、このような悪文を避けやすい。確かに、誰がしたのか、何について言っているのかが分かりにくい文章というものはある。そのような場合は、そのことを指摘した上で、どんな言葉を補えばいいか、どのように語順を変えればいいかを具体的に示唆すればいい。それを繰り返すうちに、教わる側もコツを自然と体得するであろう。「主語」などという、教える側もよく理解していない言葉を用いると、教わる側の混乱をいっそうひどくするだけである。

 近代に入って、分かりにくい文章が増えたのは、日本語を無理に英語などに合わせようとしたからである。近世(江戸時代)以前の文章が現代の日本人に分かりにくくなったのは、日本人が日本語の仕組みを忘れたからであり、昔の日本人にとっては、日本語は明瞭この上ない言語であった。

 国語(日本語)教師の仕事は、英語などとは異なる日本語の仕組みをつかみ、つかませることであって、外国語の論理に日本語を合わせることではない。その任務を国語教師がしっかり把握するためには、「日本語にも主語はあるはずであり、ないのは省略されているのだ」という思いこみを捨てることから始めなければならない。先に引用した「主語」のない兼好や漱石や太宰や川端の文章を名文として教える一方で、書くときにはそれと全く異なる文章を書けというのは、矛盾というより間違いなのではないかと思う。作文指導にあたっては、「主語を書け」などとは言わず、むしろ、「日本語でむやみに主語みたいなものを書くな」と言うのが、国語教師の務めであろう。
 

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