言語学は科学となるべきか?

 小学校のころ、山口県の下関からの転校生がいた。「届く」ことを「たう」、「やり通す」ことを「しききる」、「大きい」ことを「太い」、「かたづける」ことを「かたす」と言っていた。語尾には「行くっちゃ」という具合に「ちゃ」がさかんについていたことも覚えている。

 それから約40年後のある日、ウェブ上で、東京にも方言があるという例として「かたす」という言葉があるとの趣旨のページを見つけた。私はまぎれもなく浜っ子であり、「かたす」という言葉はくだんの少年以外から聞いたことがなかったので、関東・東北方言だという説明を呼んで驚いたが、方言辞典を引いてみても、やはり「関東・東北方言」と書いてある。私は、すっかり狐につままれたような気分になったのだが、そのとき、長い間忘れていたある事実を思い出した。彼の母親は東北出身だったのである。思うに、「かたづける」という言葉は、子供が真っ先に覚える言葉の一つである。子供は散らかし魔であるから、母親はたえず「かたづけなさい!」と命令する。その言葉が「かたしなさい!」であったとしたら、地元の言葉とは別に子供にしみついていたとしても無理はない。私は、4語セットで記憶していた上、自分は浜っ子であるため、「関東・東北方言」という説明にひどく抵抗を感じたのであった。その後、下関在住でHPを開いている方にメールで問い合わせてみた。九州出身なので自信はないがと前置きした上で、「たう」「しききる」「太い」は日常的に聞くが、「かたす」というのは聞いたことがない、との御返事を頂き、いまさらのようにことの事情に確信が持てたのであった。

 方言調査のときには、それぞれの土地の生え抜きの人をインフォーマント(情報提供者)として選ぶのが常識である。生え抜きの人とは、その土地で生まれ育ち、異郷での生活体験のない人ということである。くだんの少年は、横浜に来るまで下関以外での生活体験がなかった。しかし、「生え抜き」の条件をさらにきびしくすれば、「生え抜き」ではなくなることになる。さて、テレビがすっかり普及した今日、子供は母親など家族の言葉に負けず劣らずテレビから聞こえてくる共通語を聞いて育つ。このような時代に、「生え抜き」の人など、果たしているものなのだろうか?

 話はがらっと変わるが、近代言語学の祖とされるソシュールは、言語学の対象を「ラング」とした。「ラング」とは、フランス語とか日本語とかいう、体系を備えた言語のことである。しかし、フランス語にせよ、日本語にせよ、方言というものがある。方言を一つの「ラング」として、鹿児島語とか会津語とか言い換えてみても、さらに個人によってその体系は異なってくる。一体、「ラング」なるものは、どこに実在するのであろうか? こうなると、「ラング」の所在は、そのラングの「理想的な」話し手の中に求めるほかはない。理想的な話し手とは生え抜きの人ということになろう。しかし、どの個人を理想的な話し手とするか、という明確な基準はどこにも存在しない。一つの村の中からさがすとしても、個人のレベルでは覚え違いや個別の体験による理解のかたよりを避けることはできない。

 こう考えてくると、「ラング」なるものは幽霊のようなものなのだが、ソシュール以降の欧米の言語学者が「ラング」に固執するのには理由がある。「ラング」がある理想的な個人の中にあるものとするのなら、それは社会とは切り離して考えることのできる自律的な体系となる。遺伝子から宇宙まで、人間が作り出したものではないすべてのものは、自律的な体系をなしており、自然科学はそれゆえに成立する。「ラング」を自律的な体系とするならば、言語学は分子生物学や宇宙物理学と同じ資格で「科学」と呼びうるものとなる、というところに夢をかける言語学者が出てくるわけである。

 しかし、言語は、社会的な存在としての人間が作り出したものである。音声言語にせよ文字にせよ、エスペラントやハングルなどを除いて自然発生的に生まれ、特定の個人なり集団なりが作り出したものではないのだが、それならば風俗習慣も同じことである。人間が作り出したものを神が(?)作ったものと同様の資格で科学の対象とすることは、やはり無理なのではないか、という考えを私は持っている。さらに、私のHP全体を読んで頂いたら分かるとおり、私の言語に対する関心は、私が出会ったさまざまな人や社会に対する関心と不可分のものとしてある。言語学を科学にしたいという情熱自体、私には理解できないところがある。というより、私にはそんなことは「面白い」と感じられないのである。

 「ラング」を自律的な対象として研究を進めていけば、言語を処理する上で、さまざまな便利な手段をつくることはできると思う。現に、私はそのような便利な手段を用いてこの記事を書き、ウェブ上に公開している。自動翻訳もあるいは今よりは少しは実用的なものになっていくかも知れないが、最後に「まともな」言語にするのが人間であることに変わりはない。現時点では、自動翻訳どころか、漢字変換すら満足なものにはなってはいない。改良の余地はまだまだあるのだろうが、「完璧」ということがあるはずだという前提は捨てたほうがいい。機械が処理しやすい言語が完全で、ありのままの言語は不完全だなどという考えはただの倒錯である。人間が生きる上で必要とする言語表現にまったくの無駄ということはないはずである。


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