「世間」と「社会」の違い
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 「社会」という言葉には古い用例があるが、今日の意味で一般に広まったのは、英語のsociety などの西洋語の訳語としてである。それまでの日本語にこの意味での「社会」に近い言葉があったかと考えてみると、「世間」という言葉がまず思い浮かぶ。しかし、「世間」は自分を中心とする小社会の意味で用いられてきたために、「世間」は society の訳語とはならず、新たに「社会」という言葉が作られることになった。

 「社会」に比べると「世間」は部分的である。「あの人は世間が狭い」というように、「世間」は人によってさまざまである。「世間が狭い」というのは、人づきあいの範囲がひどく狭いことを示している。「世間が違う」という表現もある。この場合は、日ごろの生活圏が重なり合わないことを意味している。「世間」は人の置かれた状況によって千差万別といえる。

 「社会」のもととなった society にも、「ハイ・ソサエティ」のように、特定の範囲を示す用法もあるが、一般的には「社会」は「世間」より広い範囲をさす言葉といってよい。子供が非行に走ったときには、「世間に顔向けできない」というが、これは御近所のことをさしている。「世間」に当るヤマトコトバには、古く奈良時代から「世の中」というのがあったが、平安時代になると「男女の仲」という意味で用いられることもあった。それも、一般的な男女の仲ではなく、特定の男女の仲という意味である。特殊化のきわみといってよい。

 「社会」という言葉が西洋語の翻訳語として明治以後に広まったのに対し、「世間」という言葉はもう千年前後も日本人になじんだ言葉である。本来は仏教用語であり、僧侶が出家以前にいた俗世間をさす言葉だったが、かなり古くから今日と近い意味で用いられていたらしい。意味は広がったが、 society のような普遍性は持たず、個々人の置かれた状況の特殊性を常に引きずっていた。仏教用語といえば、「世界」や「人間」も仏教用語である。「人間」の場合、「じんかん」と漢音で読まず、「にんげん」と呉音で読むことが仏教用語であることを示している。「世界」は今日 world の訳語として用いられているが、本来は衆生の生きる領域ということであり、「世間」同様、個々人により、そのイメージするものが異なっていたらしい。

 日本人は「世間」に従って生きる。つまり、身近な人々の顔色をうかがって生きる傾向が強い。しばしば報道される企業ぐるみの犯罪などは、そのことの証であり、社会全体のために生きていることを意味してはいない。明治に society を「世間」と訳さず、「社会」という新語を作った人たちは、 society と「世間」との違いをきっちり感じ取っていたのであろう。自分の生活圏を超えて「社会」をイメージすることは、今も日本人は不得手のように思われる。それは、一人一人の日本人が、間を置いて、「世間」とつきあうのではなく、ともすれば「世間」の流れに巻き込まれやすいことを示している。そして世間には逆らうものではないということを信条としている。

 話は変わるが、ことわざというものは明治より前に成立したものが多い。明治以後日本語に加わった「社会」という語がことわざに用いられないのも当然のことである。これに対し、「世間」を含むことわざは山ほどある。「渡る世間に鬼はない」をもじった「渡る世間は鬼ばかり」というTVドラマがあるが、これもまた、「世間」が一人一人違うものであることを示している。ところで、 society に当る日本語は明治以前にはなかったのだろうか? 強いていうなら私は「天下」という言葉を挙げたい。
 
「金は天下のまわりもの」というように、「世間」よりはずっと広い範囲を指す言葉である。しかし、明智光秀の「三日天下」というように、「天下」という言葉には、上から握るものというイメージがある。本来は中国の言葉で、「修身斉家治国平天下」というように、個々の国家を超えた世界という意味もあったが、それとて、当時の漢民族の知る世界に限られていたし、「天下をとる」という言葉があるように、「支配下にある地域」という意味もあった。「かかあ天下」という比喩的表現にも、支配下にある地域は局限されるが、この意味は活きている。

 アメリカでは world がUSAの意味で用いられているという話を聞いたことがある。ベトナム戦争のころ、死線に置かれた兵士たちはいつ world に帰れるのかとお互い訊ねあったという。このような world の用法を示すのが野球の「ワールド・シリーズ」だという。こうして見ると、自分の生活圏を超えて、広く「社会」のことを考えるのが苦手なのは、何も日本人に限ったことでないのかも知れないという気もしてくる。

 小島剛一氏の御教示によれば、英語の「social circle」が「世間」に近い意味を 担う場合があり、教会の「教区」一つと行政上の「村」一つが重なっているような小さな村落では「村社会 + 隣の大きな町」ぐらいが「世間」に相当することがあるという。欧米人も結構「社会が自分をどう見るか」を気にしながら生きているので、「世間に身の置き所が無い」などの表現に現れる「世間」は、翻訳できないというわけではないらしい。西アジアのイスラム圏の人が英語でsocietyというときには、日本語の「世間」と考えたほうが適切な場合もよくあるとのことである。最近急速にひろまったfacebookなどのSNS(social networking service)も、使う側から見れば仮想の「世間」ということになるかも知れない。「社会」にも「世間」にもさまざまな意味があるが、両者を対比したときには、「世間」には「自分を中心として見た小社会」という意味があるように思われる。

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