日本語のぱぴぷぺぽ 

 日本語のハ行音は昔はファ行であり、さらに古くはパ行であった。この変化により、日本語のP音は、「ん」や促音(小さい「っ」)のあとという特殊な環境以外では姿を消し、「ぴよこ」は「ふぃよこ」を経て「ひよこ」となった。しかし、ここで、なぜP音にこのような変化が起ったのかという疑問が残る。一言で言って、それは、P音がきわめて労力の要る音だということによる。

 いわゆる子音は、呼気の流れを遮断して母音に色彩をつけ、多様な音を生む。人間の口腔はきわめて複雑な形をしているが、音の多様性は何より、動く部分としての舌によって保障されている。早口ことばがうまく言えないとき、「舌が回らない」というのも、このためである。フランス語で言語のことを「ラング」というが、これはもともと「舌」という意味であり、そのことは「ラング・ド・シャ(猫の舌)」という菓子の名前で分かる。

 子音の一つの型としてして、「破裂音」(閉鎖音ともいう)と呼ばれるものがある。舌などを動かして作った閉鎖を呼気の力で一気に開放することで出す音である。舌を奥に引いて呼気が直角に曲がるあたりに閉鎖を作るとK音となり、舌先を前歯の裏あたりにつけて閉鎖を作るとT音となるが、P音の場合は、口腔内に溜まる空気の量が多いだけに響きがいっそう強くなる。歌舞伎の「暫(しばらく)」という演目で、「しばらく」と叫ぶとき、「く」では響きが弱いので、わざと「しばらぷ」と叫ぶのだという。P音と同じく唇を閉鎖するB音やM音でも、口腔内の気圧はP音ほど急速には高まらない。B音の場合は声帯が開いており、M音の場合はそれに加えて鼻腔への通路も開いているためである。

 関西弁で「ちがう」が「ちあう」を経て「ちゃう」となったように、調音(音づくり)がより楽な方に変化することはよくある。P音に限らず破裂音の閉鎖は、ともすれば弱まりやすい。破裂音とは別の子音の型として、摩擦音というものがある。P音に対応する摩擦音は、日本語の「ファフィフフェフォ」に見られる両唇の間で摩擦して出す音(両唇音)で、国際音声記号ではギリシャ文字のΦで示される。Φは、上の前歯と下唇の間で摩擦を起こすF音(唇歯音)と比べると不安定な音である。ヨーロッパ諸語のみならず、中国語のF音も唇歯音である。

 破裂音から摩擦音への変化が多かったのがドイツ語であり、そのことは、近縁の英語との比較で分かる。しかし、破裂音は一気に摩擦音となったのではなく、その中間段階としての破擦音を経過する。破擦音とは、破裂音から摩擦音へとすばやく移行する音で、T音からS音へすばやく移行する ts 音がその典型である。「おとっつぁん」というときの「つぁ」の子音である。「十」は英語では ten であるが、ドイツ語では zehn と(ツェーン)となる。しかし、英語の that がドイツ語では das となるように、語頭以外の部分ではさらに摩擦音のSになる。なお、英語の th は、three が drei (ドライ)になるように、ドイツ語では”d”に対応する。英語のPにドイツ語で対応するのは、pf という珍しい破擦音である。英語の plum (すもも)はドイツ語では Pflaume である。 pf の音は上の前歯を下唇に当てたまま両唇を閉じ、P音とF音とを同時に出す。この音も語頭以外では摩擦音のFに変化する。英語の ship (船)に対応するドイツ語は Schiff である。K音の場合は、ドイツ語では ch で示される摩擦音に一挙に変化した。英語の make に対応するドイツ語は machen (マッヘン)である。ドイツ語(厳密には高地ドイツ語)と原ゲルマン語とのこのような対応関係を「グリムの法則」として定式化したのは、グリム童話で知られるグリム兄弟の兄オットーである。

 日本語のP音がΦ音に変化したのも、ドイツ語に起った変化と同質である。そして一旦摩擦音になったこの音は、さらに調音点を後退させ、「ハ・へ・ホ」では声門摩擦音であるH音となった。H音は口腔の奥の摩擦音であるドイツ語の ch とはちがう。 ch に当る音はロシア語にもあるが、ロシア語にはH音がない。日本人の耳にはそれなら「ハムレット」の最初のH音は ch で示せばよいように思われるのだが、ロシア人には口腔で出す ch と声門で出すH音とはまるで別の音に聞えるらしく、むしろ同じく口腔内で出すG音が当てられ、「ハムレット」は「ガムレット」となる。 ch の音(国際音声記号ではXのような字形で示される)は、中国語では”h”、スペイン語では" j "(Japon は「ハポン」とよむ。日本のことである)で示されるが、両言語ともH音はない。このように ch の音とH音が同居する言語は珍しいようである。

よいこのアニメー
ション
より

 声門で出すH音は有声音に挟まれると消失することがある。英語の and his は「アンディズ」となり、H音は消失している。しかしこれは前後に有声子音が来た場合で、母音間では tomahawk や mahogany のように、比較的明瞭に発音される。ただ、これらはアメリカ先住民の言語からの借用語であり、英語では基本的にH音は語頭にしか現れない。。ラテン語にはH音があったが、その流れを引くラテン系の言語では、英語で Henry (ヘンリー)、ドイツ語で Heinrich (ハインリッヒ)という男子名が Henri (アンリ、フランス語)、Enrico (エンリコ、イタリア語)、Enrique (エンリケ、スペイン語)となるように、H音はすべて消失している。英語でHがサイレントとなる honest や hour もフランス語起源の言葉である。日本語では有声音間でもH音が保たれているが、「ん」や促音のあとではH音にはなりにくく、代わりにB音やP音が現れている

 声門で出すH音は調音が楽なので、関西弁ではS音までが弱まってH音になることがある。「おばさん」が「おばはん」、「なされ」が「なはれ」など、おなじみである。なお、B音も「あぶない」の「ぶ」など、語中ではΦに対応する有声の摩擦音になりやすい。この音は、音声記号ではギリシャ文字のβのような字形で示される。M音の閉鎖も「やまもと」のように連続するときには弱まる傾向がある。このような場合に限らず、若い世代ではM音の閉鎖が弱まる傾向が一部に見られ、若い女性がテレビで話すのをよく見ていると、マ行を言うときにも唇が閉じていないときがある。

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