「しめすへん」が示す意味

 漢字の7割前後は形声文字といい、意味を表す部分(義符)と音を表す部分(声符)に分かれる。「胴銅桐洞」はいずれも「ドウ」ないし「トウ」と読み、「へん」がどういうことに関係する言葉なのかを示している。さらに、同じ声符を持つ字には、意味的にも共通点が多いという説を唱える人(故藤堂明保氏)もいる。たしかに、「葉」も「蝶」も「鰈(かれい)」」もすべて平べったくて納得できるが、これを一般化するのはこじつけくさいという批判もある。

 義符と声符とは左右にも上下にも組み合わせられる。その場合、左右に組み合わせる場合は、左(へん)が義符という例が圧倒的に多い。しかし、右(つくり)が義符という例も少なくはない。魚の場合は「鰹鯛鯉鮫鯵」のように左が義符だが、鳥の場合は「鶴鳩鴎鶏鵜」のように右(つくり)が義符となる。上下に組み合わせる場合は、「雪霧霞霜雷」のように上(かんむり)が義符の場合と、「恋怨忘志感」のように下(あし)が義符である場合が伯仲している。上下に組み合わせた場合に下に置かれる義符は、左右に置かれる場合は左側に置かれる。その際、より簡単な形に改められる例が多い。「心」の場合はりっしんべんとなるし、「撃」「摩」など、「あし」のときにはもとの形を保っている「手」もへんとなるとてへんになる。「あし」となった場合は「腐」のように元の形のままである「肉」という字は「へん」となると月に化ける。これを「にくづき」といい、月とは何の関係もない。「肉」を簡単にしたらたまたま「月」と形が似ただけである。本物のつきへんは「朧(おぼろ)」など数がすくなく、「腹胸肺肝臓」など、人体に関係するにせもののつきへんであるにくづきのほうが遥かに多い。

 もちろん、「へん」となっても「あし」となっても同じ形をとる義符も多い。「木」などがその例で、「松」や「杉」でも「栗」や「梨」でも同じく「木」である。「示」という義符も本来は「木」と同じだったのであるが、戦後の文字改革で「へん」となった場合はカタカナの「ネ」に近い形に改められた。しかし、常用漢字とされなかった字は「祠(ほこら)」や「祭祀」の「祀」のように、「示」の形のままである。京都の「祇園」の「祇」(「祗」は別の字)も当用漢字ではないので「示」のままであるはずだが、「示」を「ネ」に変えた字がひろまっており、パソコンでは「示」のままの字が出てこない。ただ、「あし」となった場合は、「示」も元の形を保っている。

 さて、常用漢字として認められた「示」を「へん」ないし「あし」とする字には、つぎのような字がある。

禍 禅 禎 禁 示 礼 社 祈 福
祉 祝 神 祖 祐 祭 祥 票 禄

 「示」という部首にはどんな意味があるのだろう? 「神社」に詣でると、われわれは一礼して祖先の霊に祈り、禍をもたらさず福をもたらしてくれるようにたのむ。神社で立ち小便など禁物であり、願いがかなえられるとそれを祝って改めて神を祭る。これらの字によって分かるように、「示」を部首とする字はいずれも神がかっている。これとまぎらわしいが、「視」という字の場合、義符は「見」という「つくり」のほうである。「見」という字は、義符としては「観親規」のように右側にくる。「視」の字の左側も本来は「示」だったのであり、「シ」という音を表す声符となっている。

 ところで「示」という字はなぜ神がかっているのであろうか? この字の形自体がその問に対する答になっている。まず、中央にあるアルファベットのTのような部分は神へのいけにえを置く台の形である。一本の杭の上に平たい板が載っている形を考えればよい。Tの上の「一」はいけにえであり、Tの両脇にある点は、いけにえからしたたり落ちる血を意味している。つまり、神にいけにえを供えて見せることが「示」という字の本来の意味であった。なにやら血なまぐさいが、昔は世界中どこでも血なまぐさかったのである。「ほんとうは恐ろしいグリム童話」という本があったが、グリム童話に限らず、ニッポン昔話もギリシャ神話も、そして漢字も、本当は恐ろしいのである。

 「ゆうこ」という女子名はさまざまに書かれるが、とくに紛らわしいのは「裕子」と「祐子」である。よく見ると「裕」は「ころもへん」、「祐」は「しめすへん」である。「裕」は服がたっぷりあって裕福であることを示し、「祐」は天の助けを意味している。訓読みは「裕」は「ひろ」、「祐」は「すけ」が一般的である。「崇」という字は、男子名となると「たかし」と読むが、この字の部首は「示」ではなく、「山」であり、山が高いことを示している。これとまぎらわしい字に「祟」がある。よく見ると「崇」は「山」の下に「宗」と書くが、「祟」は「出」の下に「示」と書いてある。「祟」は神のたたりであるが、誤って「崇」と書かれることが多い。しかし、命名のときには親は慎重になる。子供に「悪魔」とつけようとした親はいたが、まさか「たたる」とつける親はあるまい。さいわい「祟」は人名漢字も含めて、名前に用いる字としては認められていないので、親の勘違いで名前に祟られる子供はいないようである。       

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