日本語では、てにをはを除くと、ただ1拍からなる語というのは安定しない。そのため「李」とか「呉」という外国人は「りーさん」「ごーさん」と呼ばれることが多い。日本人にもまれに1拍の姓があり、私の知っている例では「瀬(せ)」という人は「せーさん」と呼ばれている。旧国名の「紀伊」や幕府の大老で知られる「井伊」という姓も、本来は「木」「井」であったと考えられる。とくに関西では1拍の語を伸ばして発音することが多く、「手」は「てぇ」と上り調子で発音される。 道が碁盤の目になっている京都には、東西に走る通りの名前を暗記するための歌として、「まる/たけ/えび/すに/おし/おい/けー/あね/さん/ろっ/かく/たこ/にし/きー/しー/あや/ぶっ/たか/まつ/まん/ごー/じょー……」という歌がある。スラッシュを入れたとおり2拍ずつに区切って歌われ、順に「丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条……」を示している。南北通りを覚える歌もあるのだが、東西通りの歌よりリズムが悪く、私は覚えていない。東西通りの歌が覚えやすいのは、「すに」の部分を除き、2拍ずつの区切りが通りの名前の区切りと見事に一致しているためもあるだろう。 2拍の語が2回以上繰り返されるとそこにリズムが生まれ、安定感はさらに増す。「デジカメ」「リモコン」など、外来語を4拍に縮めることが多いのもそのせいであろう。また、「はる、なつ、あき、ふゆ」という場合は順番を意識するせいか、同じ長さで言うのに、「はる、あき、なつ、ふゆ」となると、無意識に「はるあき、なつふゆ」と2つにまとめて言うことが多いようである。 4拍をさらに2回繰り返すと、「棚からぼたもち」とか「貧乏ひまなし」のようなリズムのよいことわざが生まれる。しかし、日本語の定型詩はこのような偶数拍からならず、七とか五とかいう奇数拍からなる。これはなぜなのだろうか? それは、偶数句だと切り方が1種類しかなく、意味的な切れ目と一致させるのが難しい場合が多くなるからである。8拍の例をあげれば、「心から祝う」は「ここ/ろか/らい/わう」となり、口調よく唱えようとすれば意味がとれず、意味を意識して切るとリズムが乱れてしまう。そこで、8拍のどこかに空白の拍を入れ、意味との連関を保ちながらリズムを保つことにする。空白の拍は、最初か最後に入れれば、途中で途切れることもなくなって自然である。ここで、全体として同じ7拍だが、切れ目が違う「人に好かれる」と「心に響く」とに空白の拍を1つずつ補って考えてみよう。「人に好かれる」では「・ひ/とに/すか/れる」が「ひと/にす/かれ/る・」よりよく、「心に響く」では「ここ/ろに/ひび/く・」が「・こ/ころ/にひ/びく」よりいいことには、誰からも同意していただけると思う。このように空白拍を入れることで、さまざまな意味の切れ目に対応できるところが奇数拍の強みだといえる。そして、9拍以上では間延びすることを考えると、5拍、7拍といったところを、一つのまとまりとするのは当を得ている。そして、奇数拍の前後に空白の拍を入れることには、切れ目をはっきりさせる上に、リズムが単調になるのを避けるという重要な効果がある。
以上のように考えてみると、日本の律文(日本語の詩歌には韻が用いられることが少ないので、韻文という語より、リズムがある文という意味でこのように呼ぶほうがふさわしい)が五七または七五の繰り返しを多用する理由がはっきりしてくる。そして、五七調と七五調を比べると、七五調のほうがずっとリズミカルである。五七調では、2拍の繰り返しが2回しかなく、十分リズムに乗りきらないうちに、間延びのする七に移るため重たい感じになる。これに対して、初めに2拍を3回繰り返す七五調では、十分に助走がついた上で、下を5拍でコンパクトにまとめることができる。その違いは、「こもろなる、こじょうのほとり、くもしろく、ゆうしかなしむ、みどりなす、はこべはもえず、わかくさも、しくによしなし……」という五七調の歌と、「ほたるのひかり、まどのゆき、ふみよむつきひ、かさねつつ、いつしかとしも、すぎのとを、あけてぞけさは、わかれゆく」という七五調の歌を比べてみれば明らかであろう。 |