自称に用いる日本語

 何気ない会話でも、印欧語では、"you"とか"I"とかいう代名詞を用い、誰がということを明示しなければ表現ができない。以下、英語を例にとるが、代名詞は動詞と一体となって用いられる。ある人物を話題に出し、さらに話を続けるとき、その人が男なら"he"、女なら"she"という。このような場合なら、人や動物 や物の「名前の代わり」に用いる言葉という意味で「代名詞」と呼ぶのは適当と思われる。それをさらにひろげて、「小原庄助とは怠け者の代名詞だ」などという言い方もする。しかし、"I"や"you"は、それと同じ意味で代名詞と呼ぶことはできない。"he"や"she"は会話の初めから用いることはできないが、"I"や"you"ならできる。そして、"I"や"you"には代わりになる言葉がない。"I"や"you"は、「代わりの名詞」というよりも、純粋に話し手との関係を示す、名詞とは別種の言葉と考えられる。

I am We are
You are You are
He is They are

 このように"I"や"you"は"he"や"she"とはかなり性質の異なる言葉だが、英語では人称代名詞として一括されている。その理由は、動詞の形を変化させる上で一つのセットになっているからである。このようなセットにしたとき、"he"や"she"も、"I"でも"you"でもない関係を示すものとしてとらえなおされているのである。

 英語で育つ子供は、"I"や"you"を含む会話を全体として聞いて、自然に"I"や"you"の使い方を呑み込んでいくのだろうが、会話に必ずしも「私」とか「あなた」という言葉を必要としない日本語の場合、子供は初めから、「私」や「あなた」という言葉に示された「関係」という概念をつかまなければならない。ところが、これが小さい子供にとっては、案外むずかしいことなのである。「私」という言葉を使えるようになるには、その「私」を見ているもう一人の「私」を頭の中に想定しなければならない。小さい子ははじめ自分のことを「~ちゃん」と呼ぶ。周りも「~ちゃん」と呼ぶから、これは分かりやすい。しかし、いつまでもそれではいけないと思うから、男の子なら、周りが「ぼく」と呼ぶ。自分のことを「ぼく」と呼びなさいという躾なのである。しかし、本当に大事なことは、その子が自分を「ぼく」と呼ぶかどうかということではなく、「関係」というものを理解して言葉を使えるようになるかどうかということなのである。

 もう一人の自分を頭の中に想定するといっても、「どこ」ということを特定しなければ、なかなか難しい。もっとも簡単なのは、いま話している相手(厳密には自分の頭の中にある相手)にもう一人の自分を設定することである。それができたとき、初めて子供は本当の意味で「わたし」という言葉が使えるようになる。そして、そのときは、同時に「あなた」という言葉が使えるようになったときなのである。でも、日本語では家族に対して「あなた」なり「きみ」なりという言葉を使う習慣はない。「あなた」なり「きみ」なりという言葉が使えるようになるためには、家庭以外の場所に出て行く機会がなければならないのである。

 子供は母親を「おかあさん」と呼ぶ。しかし、小さい子供の場合、自分と母親との関係を理解して「おかあさん」とよんでいるわけではない。近くの公園の砂場などで、よその子供が自分の母親を「おかあさん」と呼ぶのは、子供にとっては驚きなのではないだろうか? 「~ちゃんのおかあさん」と言い出すのは、「関係」を理解するというより、「~ちゃんにとっておかあさん(これは自分の母親という固有名詞)のような人」という比喩の作用が働くからだと思われる。比喩(たとえ)の能力は子供にもある。隣の家の大きな犬をみなれた子供が、生まれて初めて見た牛をその犬の名前で呼ぶのを私は聞いたことがある。子供にも比喩の能力があるということは、言語の本質にかかわる。大人だろうと、子供だろうと犬なら犬をみて「いぬ」というのは、目の前にいる犬を自分の頭の中にある「イヌ」にたとえているのである。だから自分の頭のなかにある「オカアサン」に他の子の「お母さん」をたとえて「おかあさん」ということもできる。さきに、もう一人の自分を設定する場所を「厳密には自分の頭の中にある相手」といったのも、自分の頭の中にある相手に自分をたとえているからである。

 幼稚園なり保育園なりに行くと、子供には今までにない体験が待っている。そこでは先生が子供たち全員に対して「みなさん」と呼びかける。それまで、子供が人と会話するのは、一対一という状況に限られていたはずである。ある幼稚園で、先生がずっと子供たち全員を「みなさん」と呼んで話をしていたところ、たまたまそのクラスに「美奈」ちゃんという女の子がいたために、他の子供たちは、先生はその子に話しかけているのだと思いこんで、何も聞いていなかったという話がある。しかし、子供たちはすぐにこういう呼びかけになれることになる。そして「ぼく」とか「きみ」という言葉を使い出す。そして、誰もがもう一人の自分を頭の中に思い描いて「ぼく」とか「わたし」とか言っているのだということを了解したとき、「おのれ」とか「自分」という言葉が使えるようになるのだろうが、それはかなり先のことになる。「おのれ」とか「自分」という言葉が使えるということは、もう一人の自分を直接面と向って話している相手以外の任意の相手に設定することができるようになるということなのだから、これは、かなり難しい。

 私は東映時代劇で育った世代だが、よく怒りをもって相手を呼ぶ、「おのれ」という言葉を映画で耳にした。今にして思えば、この言葉には相手に対して、自分をよく見直せというメッセージが含まれていたのだと思う。それも時代劇のことだから自分の分際をわきまえよという意味で用いていた例が多かったように思う。「分際」は古いにしても、「自分の言ったこと、やったことを考えろ」という意味でなら、いまでも「おのれ」は用いられないことはないが、これはやはりきつい。「自分」なら少し柔らかい。関西に来て「お前」という意味で「自分」という言い方を初めて聞いて驚いた。「自分、なにしとんねん?」というように言う。関西でもとくに大阪の人に多いようである。さらに、お前にとっての俺という意味で、相手のことを「われ」と呼ぶことさえある。

 「わたし」という言葉が、相手から自分を見て用いる言葉であるとしたならば、相手から自分がどう見えるかということを配慮した場合、英語では"I"でしか示されない存在をさまざまに言い分けるようになることは理の当然である。まず、自分が女なら「ぼく」とか「おれ」という言葉は使えない。相手が目上と思うのなら「おれ」などは使いづらい。いい年して「ぼく」というのも恥ずかしい。身分や職業による差別の厳しかった時代には、「拙者」「わちき」「愚僧」など、さまざまな"I"のバリエーションがあった。さらに、日本は幕藩体制のせいか、面積のわりに方言差が大きかった。「おいどん」といえば鹿児島、「おら」といえば東北地方という具合に方言による差もこれに加わる。こうして、日本語には話者自身を示すさまざまな表現が登場することになったのである。

 このようなことが起こりやすいのには、日本語の構造も影響している。日本語によく似た構造の朝鮮語でも、自分や相手を細かく呼び分けることも、その証拠となろう。中国語のような言語では単に「愛」といっただけでは動詞なのか名詞なのかも分からない。そこで、主語が必要になる。中国語では「我」が"I"、「你」が"you"の意味で、自分と相手との関係の如何を問わず、広く用いられている。ただ、「你ni」に対しては、「您nin」という敬意のこもった別の表現がある。これは、複数を示す「們」のついた「你們nimen」が縮んだものである。これは、フランス語で二人称複数の代名詞vousが単数として用いられたときは、打ち解けた関係で用いるtuとは異なり、よそ行きの表現となるのを連想させる。ちなみに、英語のyouも本来は二人称複数を示し、単数を示すのはthouであった。ドイツ語では「彼ら」を意味するSieがよそ行きの(打ち解ければdu)二人称として用いられ、複数形が敬意表現となることで共通している。面白いことに「神」に対しては、フランス語ではtu、ドイツ語ではduであり、vousやSieは用いない。神は人間同士の関係を超越した存在だということなのであろうか?      

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